市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

口蹄疫の終わりを願って

2010-06-16 | 生き方
 都城市、宮崎市、西都市と口蹄疫感染が先週につぎつぎと発生した。多発感染の原因はいったい何なのか、それをだれも具体的には理解できない。ウイルスの研究者の談話を熱心に聴くのだが、素人が言うこととあまり変わらない。研究者にとっても判断は出来てないとおもわざるをえないのだ。先週の土曜日に、思い切ってぼくは自転車で富田地区に行った。自動車には国道10号線でウイルス汚染の洗浄が実施されていたが、ぼくは,その脇の自転車道を行くと、べつに注意されるでもなく、監視人から労われて通って行けた。ぼくは汚染されていないのか、汚染されたままなのか、そのことを正確に想像することもできない。今や、宮崎市内ではイオンショッピングモールや銀行や、中央公民館、美術館、デパートなどでは靴で消毒液のマットの上を歩いて入る。そしてこういうことが、どれほど有効なのか、いや、実施される施設と実施されない施設もその施設の事情に任せられている。これは、施設のそれぞれの事情に任せられている。このことは全体主義国家でないすばらしさを残しているということではある。ぼくは思うのだが、しかし、それゆけに都城市、宮崎市へと感染は広がり多発しているのか、どうなんだろう。これを、研究者といえども断言できないまま、テレビで談話を繰り返している。そんなのんきな談話でいいのかと、じりじりとしてくるのであった。

 宮崎市は一昨日の14日から、県立図書館、芸術劇場、美術館、市立図書館や、イベントホール、中央公民館や体育館、科学博物館、その他の公共施設が閉館となった。民間に委託された橘通り繁華街の中心にある宮崎アートセンターは開館されたままである。デパートもイオンも県病院も開かれている。学校も保育園も映画館もだ。そういうことで、ウイルスの飛散にほんとうに効果があるのだろうか。いや、考えだすと自動車の車体の車だけを消毒したりするだけでいいのか。乗車中の人は消毒せずに大丈夫なのか。それでは消毒の徹底は可能なのか、それは不可能というしかないではないのかと思うのだ。ぼくは、村上龍の小説「ヒュウガ・ウイルス」を思い出す。この小説は、今から10年前に発表された作品であるが、当時の分子生物学の解明した病原体ウイルスの想像を絶した感染力の知見を背景にしながら、ウイルスに感染した都市を、特殊爆弾によって一瞬で壊滅させるという作戦に従事する特殊部隊の物語である。その事実感に圧倒される。その特殊病原体ウイルスは、「レトロウイルス」といわれ、宿主になった細胞に入り込んで、自分のDNAを宿主のDNAに組み込ませる。そこから宿主のDNAと同じになり増殖して、子孫を増やして細胞を突き破り、粒子を拡大する。30億対の塩基配列で書き込まれた遺伝情報と60兆の細胞による人間の精神と肉体が、わずか1万3千塩基しかないウイルスのヒュウガ・ウイルスで、一挙に破壊され、宿主となった人の最後を迎えるのである。汚染された地域は、ビッグバンと呼ばれた九州東南部の歓楽都市だとされている。まさに宮崎県のようにも思える。ただ、この小説の価値はこの黙示録的恐怖ではなく、ウイルスの想像を絶した生体を想像させることである。このような小説を読んで、ならば、この不徹底な消毒はなにを意味しているのだろうか。ただし、そのために感染がなお拡大しつつあるのかと、これもだれにも分からない。一番大事なことは、今の状態では、これが現実なのである。そう、分かることだけを手がかりに行動しサバイバルするしかないのではなかろうかと思う。しかし、学者さへ分かってないのである。しかし、わかったように談話しつづけるしかないようにみえる。ただ、辛うじて今われわれにも、分かるのは、宮崎市、都城市の感染は、24時間あまりで、畜舎の全頭殺処分ができた。これで、他の畜舎への感染が終息できるのであれば、エピデミック(地域感染)は、パンデミック(世界感染爆発)にならずに終息できよう。そうなれば、初動対策の有効なことが、明確に分かるわけで、これがまずスタートとなろう。

 ここで、もうひとつ思い出したことがある。それは去年の冬、新型インフルエンザのパンデミックの様相を帯びだした2月、NHKの特集で、辺見庸氏が出演した、破局到来の危機を語る番組である。かれは「もの食う人びと」のルポルタージュで1994年に注目を浴びた。人が食うとはどういう意味か、飢餓線上にないぼくら日本人が、完全に忘却してしまった食うという本質的意味を、問い直しこのままの飽食の日々は、やがて飢餓という終末を迎えるという内容であった。そのために今こそ、彼は口蹄疫の感染爆発について、何を語るかと思うのだが、その発言は知らない、ただ思い出したのは、あの特集番組での発言であった。

 かれは、スタジオで、新型インフルエンザの危機、環境、エネルギー、資源とすべてが破局に向かってなだれをうちながら落ち込んでいっているというのだ。世界感染爆発パンデミックといくともいくども口にしながら、その破局を呼び寄せているのは、人間たちの意識であるというのだった。食料はもちろんあらゆる消費物資の豊かさ、情報の豊かさ、個人的自由の豊かさが、じつは人間的な充実感を希薄にしている。人間として、その生体が当然実感できる痛みや歓喜、感情までも空ろにしているというのだ。終始一貫、その口調は悲痛感にあふれ、世界は中世のペスト疫を描いたカミュの小説ペストと比較されながら、現代の黙示録が語られていった。ぼくはそれを視聴しながら、なんという文学性だろうかと思った。しかし、それは現実を捉えていないし、予測もしていないし、個人感情の満足でしかないと思えた。人は内面を荒廃させ、人間らしい実感が消えつつあるという。つまり人を伝える言葉を失いはじめているというのだ。これが破局の本質だと・・・。

 今、この文学性を宮崎の口蹄疫の現状に当てはめてみるとき、これらの文学的言説は何の意味もないことを、われわれは知ることができる。つまり、かれの黙示録には、なんの意味も背負わせることが出来ないことを感じるのだ。人は人間であるための言葉を失っているというのである。

 ぼくは、言葉がなくなったとは思わない。自然科学、社会科学、そして哲学の言説は、ぼくを口蹄疫についてかんがえさせ、判断させる言説に遭遇できる。カミュのペストを再読する気にはとうていならないが、自然/社会科学書、哲学書は口蹄疫への理解を深めさせてくれる。ここからスタートしなければならないと思うばかりである。

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