市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

宮崎市若草通り イベント

2009-04-21 | 都市論
  日曜の若草通りは、ダンス、歌のイベントが行われていた。出会ったTさん、まわりをさっと見回して、イベントすれど人集まらずですわと、その虚しさを一人ごとのように口にした。おそらく、もうこんなイベント日を何回と味わされてきた人の感慨に思えた。

 今しも、若草通り2区の十字路で太鼓の演奏が始まった。十人ばかりが立ち寄っていた。演奏がはじまると、その前を、数分置きに横切っていく通行人がある。そのだれもが、まるでここで演奏が行われているということさへまったく感知しないように歩いて通るのである。これは演奏よりもぼくの注意を引くのであった。なぜ、ここに演奏がありながら、それが存在していないのか。

 その後、山形屋駐車場前のダンスをやってる正面でも同じことが起きていた。そして、デパートカリーノ前のあのT-ステージの正面でもそうだった。技術が未熟であり、内容がありきたりでつまらないということもあるが、それでも存在感がないということにはならぬはずだがなぜなのかと、みつづけていた。

 演奏者、演舞者をみつづけるうちに、かれらに「こころ」がないのに気がついた。そうだ。かれらは、ぼくに、なにを訴えようとしているのか、それがまったくないのだ。だから、ぼくのこころになにもとどいてこぬ。歌う者、踊る者とぼくは、こころが通い合うものがないのに気づかされた。つまり関係ないのだ。これでは、上演者と観衆の間に共鳴するものがなく路上になにかが駐車しているか、置かれているかでしかない。だから通行人は、なにも気づかぬようにその前を歩き去ることができるのだと、そう思えだした。

 もしこれが、大道芝居のギリアーク尼ヵ崎が演じている場であったなら、その前をなんにも感じぬかのように横切って歩く事は不可能であろう。そこにはギリアークと観衆のこころが生み出した空間が生じるからである。ではなぜ、若草通り、中心市街地のイベント奏者にはこころがないのであろうか。

 それは、なんのために歌やダンスやその他のパーフォマンスをやるのかが、わかってもないし自覚もされてないからである。一応は、街起こしなどと、目的は何かに書かれたり、回覧されたり、つげられたりはしているのだろう。しかし、街起こしの必然性や、自分にとっての意味などは、ほとんど感知も理解もできぬ事なのであろう。だから、その意識も集中力も、その意味を伝えようとする情熱も伴わない。つまり危機感がない。意識はべつのところにあり、観衆にうったえるこころが発生しないのである。

 こころがないから、自分の歌やダンスやパーフォマンスを練習しぬくという努力もおざなりになってしまう。だから、未熟であり、とうてい魅惑的なものとは程遠いのだ。こんなものを街路というやりにくいステージで演じても、通行人の興味や関心を惹くのは不可能であろう。

 ではこころある演者がいるかどうかであるが、おそらくその数は微々たるものである。現況では、街頭イベントに情熱を傾けられる演奏者が、多数いるとは、宮崎市ではかんがえられない。その理由はいろいろあるが、そういう文化の必然性がないからだと、今はのべおく。

 だから、これからも街路イベントで観衆を集めることは不可能であるし、ましてや街起こしなど不可能だ。文化で街起こしなどといわれるが、そもそも文化という「ことば」を検証もせずにダンスや歌をやっても無意味でしかない。こころのかんじられぬものは、文化でもアートでもない、ただの物体にすぎない。文化などとわかりもせずに口にするのは、止めたほうがいい。街起こしなら、文化に聞くより「街のことは街に聞け」ではないだろうか。




















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