非常に忙しい日々が続いている。5年に1度、あるいは10年に1度という忙しさだ。ランニングをする時間が取れない。このままだと1月末の館山若潮マラソンの目標を下方修正することになるだろう。楽しみながら4時間を切る、という辺りだろうか。
忙しくてランニングが出来ないことは仕方がない。それによりフルマラソンのタイムが落ちることも仕方がない。問題はランニングが出来ないことでブログの更新頻度が落ちることだ。
前にも書いたが、僕は走っている間に頭の整理をしている。別にテーマを決めて論理的に何かを考えながら走っているわけではない。1時間、2時間と走っていると、自分の中に溜まった汚れたものやジャンクなモノが汗と一緒に流れ出ていく。そして残ったものを言葉にしていくとブログになるというわけだ。
走っていないと、汚れたものやジャンクなもので自分が一杯になる。そんなものを見たり言葉にするのは楽しくない。そして書くことから離れて行き、いつの間にか書かない日々に、そして汚れてジャンクな自分に慣れていくことになる。昨夜は久しぶりに少しだけランニングした。だから今夜は少しだけ書くことがある。
先週末、小学4年の長男の学芸会を見に行った。『エルコスの祈り』という近未来の学校を舞台にした話しだ。近未来の学校では、学園長も教師も子どもを管理して成績を伸ばすことだけに精を出している。子どもたちもそんなあり方を当然だと思っている。そこにエルコスという人の心を持ったロボットがやってきて、子どもたちや教師や学園長に人間の心を取り戻させるという話しだ。
当然ながら4年生全員参加である。1つの話しの中に104人全員を登場させ、セリフを言わせねばならない。もちろん104人分も役はないので、1つの役を複数の生徒が順番でやることになる。主人公のエルコスが細身の背の高い女の子から小柄ながっしりした子に代わったりする。
ほとんどの生徒のセリフは1つか2つである。愚息のセリフは「生徒39番、一日中虫を観察していたい」、これだけである。他の生徒も同じようなものである。そして我が家はそれを見るために、僕と相方と次男の3人が体育館で舞台を見上げ、ビデオまで回している。周りも家族も同じようなものである。
生徒全員が舞台に上るから、かなりの数の家族が学芸会を見に来ることになる。みな1つか2つのセリフのためにビデオやカメラを用意してくる。そして少なくはない人たちが舞台ではなく液晶のモニターを眺めている。
僕が子供の頃には学芸会の舞台に全員が立つなどということはなかった。学年で10人くらい、クラスに3、4人くらいだった。その他の生徒は大道具係、小道具係、照明係、衣装係などしていた。それにもあぶれると単なる観客として当日、劇を観る程度だった。特に違和感もなかった。
確かに生徒全員が舞台に立って観客の前でセリフを言うというのは良い経験かもしれない。しかし一方では「なぜ自分の子供が主人公ではないのか」というクレーマーの親の存在が影響しているのは確かだろう。
ただ僕が気になるのは「劇に全員が参加する」ということが「全員が舞台に立つ」ということに直結するメンタリティーが存在していそうなことである。別の言い方をすれば、「縁の下の力持ち」というような存在には価値が見いだされず、人前に立ってぺらぺらと喋れるような人間が重宝されている世相が反映されているのではないかということだ。
大道具として舞台のセットを作り上げるよりも、作り上げられたセットで人前に立てることが評価される。自分が何かをするのは誰かに評価されるためであり、人知れず善行を積むなどということは損である。そんな時代の雰囲気が小学校の学芸会にも行き渡っている。
「雄弁は銀、沈黙は金」という諺を聞かなくなった。テレビのヒーローものでは、最初っから主人公が自分は正義の見方だとみんなに触れ回っている。僕が子供の頃には正義の味方の正体が人に知れてしまうことは、正義の味方でいられなくなること、つまり最終回を意味していた。
誰もが舞台に立つという経験は必要だろう。でも「裏方には意味がなく、人は表舞台に立てるようでなければ価値がない」という価値観を子どもに感じさせるなら、教育としては失敗である。そんな薄っぺらなメンタリティーではやがて子どもたちが生きねばならない世界の厚さに通用しないからだ。
教育というのは、世界を分かりやすく薄っぺらな知識にして子どもに伝えることではない。ついつい世界を薄っぺらに感じてしまう私たちの心性に、世界の厚みと奥深さと豊かさを気づかせるものでなければならない。
忙しくてランニングが出来ないことは仕方がない。それによりフルマラソンのタイムが落ちることも仕方がない。問題はランニングが出来ないことでブログの更新頻度が落ちることだ。
前にも書いたが、僕は走っている間に頭の整理をしている。別にテーマを決めて論理的に何かを考えながら走っているわけではない。1時間、2時間と走っていると、自分の中に溜まった汚れたものやジャンクなモノが汗と一緒に流れ出ていく。そして残ったものを言葉にしていくとブログになるというわけだ。
走っていないと、汚れたものやジャンクなもので自分が一杯になる。そんなものを見たり言葉にするのは楽しくない。そして書くことから離れて行き、いつの間にか書かない日々に、そして汚れてジャンクな自分に慣れていくことになる。昨夜は久しぶりに少しだけランニングした。だから今夜は少しだけ書くことがある。
先週末、小学4年の長男の学芸会を見に行った。『エルコスの祈り』という近未来の学校を舞台にした話しだ。近未来の学校では、学園長も教師も子どもを管理して成績を伸ばすことだけに精を出している。子どもたちもそんなあり方を当然だと思っている。そこにエルコスという人の心を持ったロボットがやってきて、子どもたちや教師や学園長に人間の心を取り戻させるという話しだ。
当然ながら4年生全員参加である。1つの話しの中に104人全員を登場させ、セリフを言わせねばならない。もちろん104人分も役はないので、1つの役を複数の生徒が順番でやることになる。主人公のエルコスが細身の背の高い女の子から小柄ながっしりした子に代わったりする。
ほとんどの生徒のセリフは1つか2つである。愚息のセリフは「生徒39番、一日中虫を観察していたい」、これだけである。他の生徒も同じようなものである。そして我が家はそれを見るために、僕と相方と次男の3人が体育館で舞台を見上げ、ビデオまで回している。周りも家族も同じようなものである。
生徒全員が舞台に上るから、かなりの数の家族が学芸会を見に来ることになる。みな1つか2つのセリフのためにビデオやカメラを用意してくる。そして少なくはない人たちが舞台ではなく液晶のモニターを眺めている。
僕が子供の頃には学芸会の舞台に全員が立つなどということはなかった。学年で10人くらい、クラスに3、4人くらいだった。その他の生徒は大道具係、小道具係、照明係、衣装係などしていた。それにもあぶれると単なる観客として当日、劇を観る程度だった。特に違和感もなかった。
確かに生徒全員が舞台に立って観客の前でセリフを言うというのは良い経験かもしれない。しかし一方では「なぜ自分の子供が主人公ではないのか」というクレーマーの親の存在が影響しているのは確かだろう。
ただ僕が気になるのは「劇に全員が参加する」ということが「全員が舞台に立つ」ということに直結するメンタリティーが存在していそうなことである。別の言い方をすれば、「縁の下の力持ち」というような存在には価値が見いだされず、人前に立ってぺらぺらと喋れるような人間が重宝されている世相が反映されているのではないかということだ。
大道具として舞台のセットを作り上げるよりも、作り上げられたセットで人前に立てることが評価される。自分が何かをするのは誰かに評価されるためであり、人知れず善行を積むなどということは損である。そんな時代の雰囲気が小学校の学芸会にも行き渡っている。
「雄弁は銀、沈黙は金」という諺を聞かなくなった。テレビのヒーローものでは、最初っから主人公が自分は正義の見方だとみんなに触れ回っている。僕が子供の頃には正義の味方の正体が人に知れてしまうことは、正義の味方でいられなくなること、つまり最終回を意味していた。
誰もが舞台に立つという経験は必要だろう。でも「裏方には意味がなく、人は表舞台に立てるようでなければ価値がない」という価値観を子どもに感じさせるなら、教育としては失敗である。そんな薄っぺらなメンタリティーではやがて子どもたちが生きねばならない世界の厚さに通用しないからだ。
教育というのは、世界を分かりやすく薄っぺらな知識にして子どもに伝えることではない。ついつい世界を薄っぺらに感じてしまう私たちの心性に、世界の厚みと奥深さと豊かさを気づかせるものでなければならない。
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