とんびの視点

まとはづれなことばかり

さまざまな鉄柵を乗り越えて(国会前抗議行動4.14)

2018年04月15日 | 雑文
まだ腰痛はよくならないが、3km程度のジョギングを再開した。(ランニングとはとても言えない。)ほぼ2週間ぶりだ。走ってみると、太陽の光や気温や風の感じが変わっている。木々の葉がだいぶ茂りだし、街がだいぶ緑色になっていた。あっという間に、汗ばむような暑さが来て、夏のようだとか言いながら、もっと暑い本当の夏を迎え・・というように、繰り返すように月日は流れていくのだろう。

繰り返さない出来事もある。昨日は国会前の抗議行動に行ってきた。強風と雨が予報されていたが、風もそれほど強くなく、雨もほとんど降らずにすんだ。(雨のことを考え、国会前にいく前にモンベルに寄りポンチョを買った。ポンチョは以前から欲しかったので、今回のことに「かこつけて」という感じだ。)

抗議行動の始る14時少し前に国会前に着いた。霞が関駅から多くの人が国会を目指していたので、人数はそこそこ集まると思った。着いてみれば、すでに人も多く、大音量で音楽がかかりラップ調のコールが起っていた。(国会前はけっこうな広さなので、それぞれの場所でいろんな形の抗議が行われている。足を止めたのは一番ノリのよいところだった。)

かなりの人出だが安保法の時ほどではない。国会前に来ることだけが意思表示だとは思わないが、疑問を持っている人たちは何らかの形で自分の意志を表示してるのだろうか。かなり心配だ。

心の中では反対している。声には出さないが怒っている。それでは人に伝わらない。言わずに理解して欲しいと思う心が「忖度」の社会を作り出す。異なる意見を、目くじらを立てずに、みんなが言えるのがいい。社会にはそのくらいの余裕があったほうがよい。

国会前に着いたときに、今日は確実に車道に人があふれると思った。車道に機動隊の車両がなかったからだ。機動隊が本気で人々を押さえ込むなら、歩道の脇にカマボコと呼ばれるバスのような車両をずらっと並べる。(そしてアイドリングをし続けるといういやがらせをする。)その車両がない。もちろん、歩道と車道の境目には鉄柵がずらっと並べられている。しかし、その鉄柵は安保法の時に破られている。だから、鉄柵ぐらいでは防げないことは機動隊もわかっている。

抗議する人たちに「はいどうぞ」と簡単に車道を開放するつもりはないが、絶対に「破らせまい」ともしていない。そんな印象を受ける。国民が本気で乗り越えようとすれば、勝ち取ることはできる。多少意味は違うが、安倍首相が「後は国民の判断」と言ったことと通じる。

国家の中枢に権力が集中することは避けられない。しかし集中した権力がどのように機能するかは、国民と権力の関係によって決まる。国民が権力に無関心になり、何の関与もしなければ、権力は自らの欲望にしたがって動く。その意味で、権力の姿は国民の姿そのものだ。(私は選んでいないが、)私たちが選んだ政権なのだ。時の政権を批判することは大切だが、糾弾するだけではダメだ。(抗議の口調はそうならざるを得ないけど。)

安倍政権になって日本もだいぶひどいことになった。(もっともひどいのは言葉の劣化だ。言葉が機能しない社会になってきた。)それでも日本はまだ民主主義国家だと思った。国民が本気で乗り越えようとすれば、乗り越えられる鉄柵を設けているからだ。(誰かが意図しているのか、たんなる僥倖なのか。)

戦後、憲法がアメリカから与えられたように、民主主義もアメリカから与えられた。日本人は自分たちで民主主義を勝ち取っていない。戦争の悲惨さを覚えていた人たち、何らかのきっかけで民主主義を考えることになった人たち以外は、民主主義はとくに意識する対象ではなかったのだろう。

だから、民主主義が攻め込まれていても気付かない。だから、民主主義をどこかで勝ち取らなければならない。安倍首相の「後は国民の判断」という言葉は、そういう意味を持っていると思う。「民主主義を勝ち取りますか」と。(安倍首相って能力的なスペックは高くないと思うが、けっこう恐ろしい存在だと思う。真剣に向き合っておいたほうがよいと思う。)だから、国民はきちんと自らの判断を示したほうがよい。問いかけられたら、答えるのが礼儀というものだ。

そういうわけで5万人の人が国会前に集まり、鉄柵を破って車道で声を上げた。何というのか、こういうのも自分たちで民主主義を勝ちとることだと思う。すごく小さな勝ち取りだけど。独裁国家ならこんな簡単に鉄柵は破れないだろう。放水もされない、警棒で打たれることもない、ゴム弾を撃たれることもない。声をあげれば、けっこう簡単にいろいろな鉄柵を乗り越えることはできる。乗り越えられるうちに、乗り越えておくべきなのだ。そうしないと、いずれたくさんの血を流さないと乗り越えられないような鉄柵が目の前に立ちはだかることになる。

すでにさまざまな鉄柵が日本社会にはある。(どの社会にもある。)それぞれの鉄柵に対して、いろんな乗り越え方があるだろう。さまざまな鉄柵を乗り越える私たちの作法のひとつひとつが、この社会を成り立たせるひとつひとつとなる。個々人が気楽に異なる意見を表せるのがよいように、鉄柵の乗り越え方もさまざまであってよい。

昨日の国会前でも、いろんな形の抗議の仕方があった。正しい抗議仕方があって、みんながその通りに抗議するなど、堅苦しくて気持ち悪い。社会を変えていくには時間がかかる。いや、時間をかけねばならない。いろんな形でそれぞれが鉄柵を乗り越えている時に社会は多様に生成している。

昨日、たぶん、日本の社会でいままでにない抗議の形が生まれた。こういうのもありだし、とてもよいと思った。
80過ぎのおばあちゃんが気持ちよさそうに踊ってた。おかしいものはおかしいと声を上げながら。もちろん僕も。
言葉で説明するよりも映像で。
https://www.youtube.com/watch?v=wFy8U5gmbsc&app=desktop

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