とんびの視点

まとはづれなことばかり

風の中のマラソン大会

2010年03月26日 | 雑文
すでに何日も経ってしまったが、このまえの日曜日には荒川市民マラソンを走っているはずだった。はずだった、というのには二重の意味がある。一つはマラソン自体が中止になってしまったことだ。週末にはすごい風が吹いた。木々は激しく揺れ、人が歩くのも大変そうだった。そのうえ黄砂も飛んでいた。開けていた窓のわずかな隙間から砂が入り込み、部屋の中はざらざらになってしまった。

マラソンが中止というのはこれまでで初めての経験だ。雨だろうと雪だろうと風だろうとやるものだと思っていた。実際、数年前にもすごい強風のなか荒川市民マラソンは開催され、とても辛い走りをしたことを覚えている。沿道の人がふつうに立っているのが大変なくらいの風で、正面から風を受けると走っていても押し戻されるほどだった。だから中止という言葉は思いつかなかった。辛いレースなのだろうと思った程度だ。

でもよく考えてみると、強風でマラソンが中止というのは本質的な部分でマラソンらしいのかも知れない。僕のような梅ランナーにとって、マラソンとは自分の肉体と精神との戦いであると同時に、風や雨や気温などの自然条件との戦いである。走ること自体も楽ではないが、ある自然条件のもとで走る、その「条件」がけっこう苦楽に影響する。だから強風という自然条件がマラソンそのものを中止に追いやるというのは、案外、マラソンらしいのかも知れない。

でも、僕はその日は子どもや姪っ子達と葉山の海岸にいた。荒川市民マラソンに出場しないためである。2月に体調を崩しマラソンの参加を悩んでいた。どう考えても今回は参加を見送るのが妥当である。頭ではわかっていた。それでも大会当日に家にいたらきっと「ちょっと走ってくる」と言いそうな気がしたので、早めに予定を入れて出かけてしまったのだ。結果的には大会に振り回されずにすんだ。それに、本当は走れたはずなのに逃げたのではないかという気持ちにもならずにすんだ。

葉山の海岸にいたからといって風がなかったわけではない。それどころかすごい強風だ。風が砂を飛ばし、その砂が顔に当たる。風は海から海岸に向かって吹き続ける。引き潮のせいで、傾斜のない平らな砂浜が寄せては返す波で湿り、濃い灰色が広がっている。

砂浜にはいろいろな物が打ち上げられている。表面が擦れて白っぽくなったペットボトル、ボール、プラスチックのバケツ、海藻、流木、ロープ。そんな一つ一つを眺めながら海岸線を歩く。2人の息子と2人の姪っ子は引く波に合わせて海の方に近づき、波が寄せてくると歓声をあげながら逃げるのを繰り返していた。ちょっと離れていても、子どもたちの声が風に乗って流れてくる。

波が引いた瞬間の砂浜はかなり水を含んでいる。そこを海の方に歩くのだから少しずつ靴は湿っていく。そして時おりやって来る勢いのよい波が少しずつ靴にかぶる。きっと靴の中には海水が入り靴下まで濡れているのだろう。でも4人とも気にならないようで、嬉しそうに飛び跳ねている。

子どもたちが夏みかんを見つけた。夏みかんは時おり海岸で見かけるのだが、見る度にちょっとした違和感をもつ。その違和感は言葉になることはないのだが、言葉にすれば、どうして海から夏みかんがやってくるのだろう、となるだろう。その瞬間、夏みかんがいちど海に落ちてそれが打ち上げられたのだという言葉が浮かび、違和感はなくなってしまうに違いない。海岸で夏みかんを見つけたら、言葉にせずにその違和感の中にいたほうが、世界の不思議に触れている感じになれる。

当然のように子どもたちは夏みかんを海に投げる。夏みかんは波に乗って砂浜に戻ってくる。湿った砂に夏みかんの黄色が心地よい。波のリズムとは少しズレて夏みかんが転がる。子どもたちは飽きずに、何度も、何度も繰り返す。海岸にしゃがんでそんな子どもたちの姿を眺める。歓声が風に乗ってやってくる。波のしぶきが風に乗ってやってくる。ぼんやりと眺めながら、自分が走っていたかも知れない風の強いマラソン大会について思いを馳せていた。中止されているとも知らずに。
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