快調である。花粉症の影響か鼻とノドの調子が少し悪いが1ヶ月前とは体の重さが全く違う。(体重は少しオーバーだが)。木曜日には久しぶりに合気道の稽古を真剣にやる。(真剣にやっても相変わらず下手なままだが)。金曜日にはボクシングの練習に付き合う。ここ1ヶ月ほどは座って見ていただけだが、この日は一緒に体を動かすことができた。土曜日には5kmほどジョギング。日曜日には長男と次男を連れて5kmほどジョギング。長男は1.3kmほどランニング、次男は2.5kmほど補助輪なし自転車で並走。
そして今日は昼休みに土手まで10kmのジョギング。春休み中の長男が自転車で一緒に来る。土手に着くと、北の空のどんよりとした雲から雨が落ちているのが見える。そして強く冷たい北風が吹いている。場合によっては雨に捕まるかもしれない。そう思いながら少しペースを上げて走る。長男は寒そうな表情をしながら自転車を漕ぐ。強い風に乗って雨粒が横から体に当たりはじめる。やはり捕まったか、と思う。雨足がどんどん強くなる。そのうち雨に白いものが混じり出す。「あられ」である。
あられが横殴りに降る。顔に当たり、耳に入る。当然のことながら、ちょっとワクワクしてくる。自転車で並走している長男も「ひょうだ、ひょうだ。痛い、冷たい」と喜びながら被害を訴えている。長男を喜ばせようと「オレさまはティーガー、世界一のティーガー、飛~び跳ねる」と飛び跳ねながら走る。「何で?」と尋ねる長男に「ティーガー(トラ)は、ヒョウより強いから。ひょうに負けないように」と答える。
それにしても寒いし冷たい。指先の感覚がなくなってくる。風の強さに長男の自転車が流される。長男の表情が弱々しくなる。顔つきをしっかり、と走りながら言う。顔が負けているぞ、顔が負けると気持ちも負ける、だからきつくてもいい顔つきをしていろ、と。気を取り直し、締まった顔つきになり、僕の方を向く。僕は笑顔を返す。それを見て長男も得意そうに、にやっと笑う。いい感じだ。こうやって少しずつ成長していくのだろう。
途中から風も弱まり、あられも雨に変わる。少し楽になったが、やはり体の先端は冷たくなっていく。こんなに寒くて冷たいのに、家の近くでは桜の花がかなり咲いている。桜の花の下を走って長男と家まで帰る。
毎年、春に桜が咲く。そのたびに、あと何回、桜が咲くのを見るのだろうと思う。夏に決まっていく館山の海に行った時もそうだ。砂浜まで歩いていくアスファルトに映る浮輪を持った真っ黒の影を見るたびに、あと何回、と思う。秋に紅葉した桜の葉が散るときにも、あと何回。冬の夕方に富士山の近くに沈む夕日を見た時にも、あと何回。そう思いながら平均寿命に照らして残りの回数を数えているわけではない。来年だって約束されているわけではないのだ。あと何回、と思いながら、どこかでこれが最後かもしれないと思っているのだ。そう思えば、その時が少しばかり大切になる。
物心ついた頃からこういう性向はあったと思う。(もちろん後の学習による強化もかなりのものだが。)結局のところ、これは「死」を意識することにほかならない。これが最後かもしれない、そう思ったときに漠然と続くと思っていた将来、そして将来を前提にした現在の意味がどんどんと希薄になる。自分がやっていることの根拠があやしくなってくる。
ブログを書くことについてもそうだ。「何を書こう」「どのように書こう」。普段はそんなことを考えているのだが、ときおり「なぜ書くのか」という問いがやってくる。ここしばらくそういう時期が続いていた。(体調が悪かった時期と重なっている)。何を書こうかとテーマを考えても、どんなものも究極的には意味がないように感じられる。どのように書こうかと技法を考えても、どこかで執着する心が生まれない。
「なぜ書くのか」、そんな疑問が浮かび、足が止まりそうになる。でも止めない。なぜ書くのか、という問いに答えるために書いている。正確に言うなら、問いに答えることで新たな問いを見いだすために書いている。そう自分でわかっているからだ。それは「なぜ生きるのか」と問うことと同じだ。「生きること」そのものに意味などない。ないにもかかわらず、そこに意味を作り出さねば生きていけないのが人間である。問いの前で足を止めても仕方がない。足を動かすことでとりあえずの答えが出て、その答えがまた問いになる。そしてまた答える。答えが問いになる。そんなことを繰り返しながら、行けるところまで行く。
とてもシンプルだ。シンプルだけど決して楽ではない。ランニングと同じだ。桜が咲く季節。強い北風の中あられに打たれながら走る。1歩1歩、シンプルに前に出るだけだ。とてもシンプルだが、楽ではない。楽ではないが、しっかりした顔つきで前に進む。顔が負けると気持ちも負けるからだ。しっかりした顔つきで前を向いて、ときどきにやっと笑ったりするのだ。
そして今日は昼休みに土手まで10kmのジョギング。春休み中の長男が自転車で一緒に来る。土手に着くと、北の空のどんよりとした雲から雨が落ちているのが見える。そして強く冷たい北風が吹いている。場合によっては雨に捕まるかもしれない。そう思いながら少しペースを上げて走る。長男は寒そうな表情をしながら自転車を漕ぐ。強い風に乗って雨粒が横から体に当たりはじめる。やはり捕まったか、と思う。雨足がどんどん強くなる。そのうち雨に白いものが混じり出す。「あられ」である。
あられが横殴りに降る。顔に当たり、耳に入る。当然のことながら、ちょっとワクワクしてくる。自転車で並走している長男も「ひょうだ、ひょうだ。痛い、冷たい」と喜びながら被害を訴えている。長男を喜ばせようと「オレさまはティーガー、世界一のティーガー、飛~び跳ねる」と飛び跳ねながら走る。「何で?」と尋ねる長男に「ティーガー(トラ)は、ヒョウより強いから。ひょうに負けないように」と答える。
それにしても寒いし冷たい。指先の感覚がなくなってくる。風の強さに長男の自転車が流される。長男の表情が弱々しくなる。顔つきをしっかり、と走りながら言う。顔が負けているぞ、顔が負けると気持ちも負ける、だからきつくてもいい顔つきをしていろ、と。気を取り直し、締まった顔つきになり、僕の方を向く。僕は笑顔を返す。それを見て長男も得意そうに、にやっと笑う。いい感じだ。こうやって少しずつ成長していくのだろう。
途中から風も弱まり、あられも雨に変わる。少し楽になったが、やはり体の先端は冷たくなっていく。こんなに寒くて冷たいのに、家の近くでは桜の花がかなり咲いている。桜の花の下を走って長男と家まで帰る。
毎年、春に桜が咲く。そのたびに、あと何回、桜が咲くのを見るのだろうと思う。夏に決まっていく館山の海に行った時もそうだ。砂浜まで歩いていくアスファルトに映る浮輪を持った真っ黒の影を見るたびに、あと何回、と思う。秋に紅葉した桜の葉が散るときにも、あと何回。冬の夕方に富士山の近くに沈む夕日を見た時にも、あと何回。そう思いながら平均寿命に照らして残りの回数を数えているわけではない。来年だって約束されているわけではないのだ。あと何回、と思いながら、どこかでこれが最後かもしれないと思っているのだ。そう思えば、その時が少しばかり大切になる。
物心ついた頃からこういう性向はあったと思う。(もちろん後の学習による強化もかなりのものだが。)結局のところ、これは「死」を意識することにほかならない。これが最後かもしれない、そう思ったときに漠然と続くと思っていた将来、そして将来を前提にした現在の意味がどんどんと希薄になる。自分がやっていることの根拠があやしくなってくる。
ブログを書くことについてもそうだ。「何を書こう」「どのように書こう」。普段はそんなことを考えているのだが、ときおり「なぜ書くのか」という問いがやってくる。ここしばらくそういう時期が続いていた。(体調が悪かった時期と重なっている)。何を書こうかとテーマを考えても、どんなものも究極的には意味がないように感じられる。どのように書こうかと技法を考えても、どこかで執着する心が生まれない。
「なぜ書くのか」、そんな疑問が浮かび、足が止まりそうになる。でも止めない。なぜ書くのか、という問いに答えるために書いている。正確に言うなら、問いに答えることで新たな問いを見いだすために書いている。そう自分でわかっているからだ。それは「なぜ生きるのか」と問うことと同じだ。「生きること」そのものに意味などない。ないにもかかわらず、そこに意味を作り出さねば生きていけないのが人間である。問いの前で足を止めても仕方がない。足を動かすことでとりあえずの答えが出て、その答えがまた問いになる。そしてまた答える。答えが問いになる。そんなことを繰り返しながら、行けるところまで行く。
とてもシンプルだ。シンプルだけど決して楽ではない。ランニングと同じだ。桜が咲く季節。強い北風の中あられに打たれながら走る。1歩1歩、シンプルに前に出るだけだ。とてもシンプルだが、楽ではない。楽ではないが、しっかりした顔つきで前に進む。顔が負けると気持ちも負けるからだ。しっかりした顔つきで前を向いて、ときどきにやっと笑ったりするのだ。
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