とんびの視点

まとはづれなことばかり

『あ、先生、おはようございます』

2011年10月14日 | 雑文
『嘘のみたいな本当の話』という本を読んだ。一般の人たちが自分の身の回りで起こった嘘みたいな本当の話を1000字以下で書いたものを、高橋源一郎と内田樹が選んで一冊の本にまとめたものだ。アメリカでポール・オースターがやった「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」を真似たものだ。人種も文化もさまざまなアメリカ人の話を集めれば、そこに今のアメリカの姿が見えてくるのではないかというプロジェクトだ。

この『嘘のような本当の話』の出版にあわせて、Podcastで高橋源一郎と内田樹がしゃべっていた。その中で、いくつか面白い話があった。例えば、日本人とアメリカ人の書き方の違い。アメリカ人は具体性とディティールにこだわるが、日本人は話を定型にはめ込み教訓的なことを述べる。なるほど、結婚式や卒業式、入社式などでのいわゆる「あいさつ」というのは、たいてい「定型的で教訓的」である。

あるいは日本人には「本当に怖い話」が書けないということ。日本人は本当に怖いことを体験していてもそれを「怖くない話」として書いてしまう。(ある意味、それが定型でもある)。これは日本にはアメリカと違って絶対善としての神が存在しないからだそうだ。本当に怖い話を引き起こすような絶対悪が存在するためには、それに対抗できる絶対善が必要である。日本には絶対善がないから、本当に怖い出来事を「世間の出来事」として語ってしまうのだそうだ。

それは「原発」への姿勢にも現れている。「原発」というのは極めて一神教的な世界観に基づくものらしい。一神教の神は人間の理解を超えている。場合によっては信じられないような「荒ぶる神」となる。そうならないために、神殿を造り、教典を作り、神官を配置する、というようなことをする。本来、「原発」も神のように扱わねばならない。しかし日本人はそれを「世間の出来事」としてしまう。例えば、厳罰は地域振興のため、と言えば、原発は経済、お金の話となる。そういうふうに、すべてを「世間の出来事」に変えてしまう心性が日本人にはあるそうだ。

あるいは、素人によい文章を書かせる際には「縛り」が必要だ、という話。出版前のトライアルで、2000字以内で「嘘みたいな本当の話」を自由に書かせたところ、つまらなかったそうだ。そこで上限を1000字にし、テーマも「変な機械の話」「ばったり会った話」などより細かく指定した。つまり「縛り」をたくさん設けた。すると話が面白くなったそうだ。

そこから、「素人とは人に縛りを設けてもらう人」、「プロとは自分で縛りを設けられる人」という話しになった。物書きについての話であったが、これはあらゆることに当てはまるだろう。「人決めてもらうか」「自分で決めるか」。前者が素人で後者がプロ。前者が子どもで後者が大人。そういうことになるだろう。

そんな話しをPodcastで聞いてから実際に本を読んだ。全般的に楽しく読めるが、それほど驚くような話はない。読んでいて、自分にも何か「嘘みたいな本当の話」が書けないだろうかと思った。そういう話しを持っている気がする。いろいろ思い返してみたらいくつか思いついた。とりあえず1つ書いてみる。

  『あ、先生、おはようございます』

 「すみません、息子がぜんぜん目を覚まさないんです」玄関で母親がすまなそうに言ったまま黙っている。次の言葉がうまく出てこないようだ。
 「起こしてみましょうか」、僕がそう答えると、ちょっとだけほっとした表情になった。

 部屋の扉を開ける。空気の粒の一つ一つを冷やしたように部屋は冷たい。長いあいだ換気をしていないようだ。汗や食べ物のにおいが渾然一体となっている。ひんやりとして気持ちよいが、空気を大きく吸い込みたくはない。

 マンガ、ポテトチップスの空き袋、飲みかけのペットボトル、テレビゲームが散らばっている。部屋のすみにはホコリが集まっている。それらに囲まれるように汗で薄くなった万年床が敷いてある。そしてその上には、打ち上げられたトドのように中学男子が「スースー」と寝息をたてている。

 そのころ僕は、世間的に上手くいっていない子供に、勉強と生活の建て直しを同時にサポートする仕事をしていた。表向きは「勉強の面倒をみてくれ」という依頼なのだが、ふたを開けてみるとやっかいな問題を抱えていることが多かった。(親は個人の問題だというが、すべて家族の問題がそこに現れただけだった)。

  寝息をたてているは中学3年生の男子。中学1年の夏休み明けの朝、玄関で靴を履いたところで、何となく学校に行きたくなくなり、休んでしまう。それからずっと学校には行っていない。行こうと思っても行けない。どうしてなのか自分でも分からない。そして2年が経ち、そろそろ高校進学を考えねばならないので、遅れてしまった勉強を取り戻したい。そんな訳で僕のところに依頼が来た。

 「大三郎起きなさい。先生がきましたよ。大三郎」、言ったことが嘘でないことを示すように息子に声をかけた。反応はない。不健康に太った体がどてっと布団に転がっている。
 「島田君。島田君」と立ったまま僕も声をかける。起きない。しゃがんで近くから声をかける。起きない。耳元で大きな声で名前を呼ぶ。「島田君、島田君、島田君」。起きない。
 「寝たフリをしているのでしょうか?」不安そうに僕に尋ねる。
 「寝息がしっかりしているからそんなことはないでしょう」。
 スースーと穏やかな寝息が聞こえる。

 「仕方がない少し身体を起こしましょう」、そう言って布団の上に座るような姿勢にさせる。眠っているので身体がグニャグニャしていて重い。両脇に両腕を入れて後から倒れないように支える。少し湿ったTシャツが僕の腕に触れる。気持ちのよいものではない。突然、首ががくんと下がる。それでも「スースー」と寝息をたてている。

 身体を揺すってみる。何度も、何度も揺する。揺すりながら名前を呼ぶ「島田君、島田君」。やはり起きない。「いっそ立ち上がらせましょうか、手伝います」とお母さんが言う。だいぶせっぱ詰まってきたようだ。太った中学三年生の熟睡した男子を大人が二人係で立ち上がらせている奇妙な映像が頭に浮かぶ。「いや、やめましょう。それで目を覚まさないと、また寝かせるときに大変ですから」。それより、身体を支えていることに少し疲れてきた。生暖かい体温も伝わってくる。再び寝かすことにした。

 「スースー、スースー」。何事もなかったように眠っている。振り出しに戻ったわけだ。まあこんなものだろうという感じだが、お母さんにとっては深刻な事態になってきたようだ。確かに、寝起きが悪い、というレベルの話ではない。腕を組み、拳をあごに当ててしばらく考え、「ちょっと」と言って部屋を出ていってしまった。

 「島田君、起きな」と声を掛ける、「聞こえているでしょ」。どこかで聞こえているはずだ。でも聞こえないフリをしている。

 お母さんが濡れたタオルをもって来る。「これで顔を拭いてみます」と言う。顔を拭くよりも口をふさいだ方が目を覚ますと思うが、それは言わない。顔を優しく拭いている。やさしいお母さんなのだ。だが、起きない。「大三郎、大三郎」名前を呼ぶ、拭く手に少しずつ力が入る。「大三郎、起きなさい。起きなさい」と声が大きくなる。

 「スースー」、反応はない。「少し叩きましょうか」彼女の声が厳しくなる。
 「やめた方がいいと思います。起きたときに、何で殴ったんだ、と暴れるかもしれませんから。それよりも、島田君が大事にしているものはありませんか」と尋ねる。
 「大事なもの?」、意味が理解できないような表情だ。

 「ええ、ゲームとか好きなCDとか。……ああ、このポスターでいいです」。壁には水着姿のアイドルのポスターが張ってある。「これを破いちゃいましょう」。どこかで聞いていることはわかっている。聞いていて反応しないでいる。だったらそいつが反応せざるを得ないメッセージを出すしかない。

 「いいですか。ちょっと椅子を取ってください」、迷いのない声で頼む。
 「でも、そんなことをしたら、目を覚ましたときにきっと怒ります」。子どもの顔色をうかがう自信のなさそうな母親にもどる。
 「まあ、いいじゃないですか。このままずっと目を覚まさないなら、ポスターを見ることもできませんよ。大丈夫です。僕が何とかしますから」。
 「わかりました、私がやります」、ずっと目を覚まさないという言葉が効いたのか、厳しい大人の声に戻った。椅子を用意してポスターの下に置く。そして彼女が椅子に上ろうとする。その時だ。

 「あ、先生、おはようございます」
 何ごともなかったように大三郎が目を覚ます。絶妙のタイミングだ。やはりしっかり聞こえていた。
 でも、本人にことの次第を話したら、すごく驚き、怖がっていた。
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