とんびの視点

まとはづれなことばかり

子どもに本の説明をする

2011年10月03日 | 雑文
土曜、日曜日と家族で土手までランニングに行った。僕と奥さんは家からすべてランニング。子どもたちは土手まで自転車で行き、それからランニング。2週間後の大会で親子マラソンに出場するからだ。親子がペアになって2kmほど走る。今年は僕と長男、奥さんと次男が一緒に走る予定だ。

とはいえ、子どもたちはランニングだけでは満足しない。わざわざ土手である。遊ばない手はない。そんなわけで、オニギリとサッカーボールを用意して行く。土手の広場まで家から4kmほど。自転車を停め、そこから家族で3kmちょっと走る。(僕だけ5km)。汗を流し、ちょっと苦しそうだが、子どもたちはよい顔つきになる。

戻ってきてオニギリを食べる。空には秋の雲が高くに浮かんでいる。食べた後は、サッカーや鬼ごっこだ。これがけっこう辛い。このところのランニングで疲労は蓄積しているし、帰りも4kmほど走らねばならない。それでも、家族で鬼ごっこができるのもあとわずかかもしれない。長男はもう5年生だ。そう思うと元気になる。笑いながら、奇声を上げながら、家族で走り回る。

走り疲れてベンチで横になる。目をつぶる。乾いた風が心地よく、秋の日差しが体を温める。いろんな音が聞こえる。右の方からは少年野球の声や、金属バットがボールを打つ音。川の向こう側で騒いでいる声が遠くから聞こえる。足下からは土手を走る自転車の音。そして風の音が移動していく。目をつぶりながら音を聞いていると、方向や距離が案外はっきりと分かるものだ。

「もっと遊ぼうよ」。すぐ近くで子どもの声がする。「うん」と言って、僕は起き上がる。そして鬼になって子どもたちを追いかける。

閑話休題。

近ごろ「読んだ本を子どもに説明する」というルールを設けた。昔、お師匠さんに「専門用語を使って話をしているうちは大したことはない」と言われたことがある。また、吉本隆明も「思想をどこまでも深めることと、それを可能な限りわかりやすく表現することが思想家の課題だ」と言うようなことを言っていた。村上春樹の小説の書き方も同様である。

そこで『三位一体モデル』という本の説明をした。これは中沢新一の講演を薄い本にしたものだ。先ごろ出版された『日本の大転換』を読んでいる途中、ちょっと確認したいことがあったので軽く一読した。

内容的には、「父と子と聖霊」という三位一体のモデルが、高度資本主義社会を理解するために有効なモデルだということを述べたものである。この辺りは『日本の大転換』とも『カイエ・ソバージュ 愛と経済のロゴス』とも繋がる話である。

さてさて、子どもにこれをどう説明するか。子どもは小学5年と1年である。本の要約をしても意味はない。結局、世界には多神教と一神教があること、一神教の中でもキリスト教が三位一体という考え方をしていることを説明する。

「日本は一神教だと思う?多神教だと思う?」そう尋ねた。「多神教」と息子。「そうだね、日本にはいろんな神さまがいるね。太陽の神さまとか、風の神さまとか、山の神さまとか。そうそう『千と千尋』のハクも川の神さまだ。」(すでにこの辺りで次男はリタイア。当然である)

「あと仏さま」と息子。そう来ましたか。一瞬、神仏習合の話をしようかとおもうが、収拾がつかなくなるのが目に見えるので、そこはぐっとおさえた。「神さまと仏さまはちょっと違うんだ。それよりも一神教はユダヤ教とキリスト教とイスラム教の3つだけ。そのうち父と子と聖霊の三位一体を言うのはキリスト教だけなんだ」と話を閉じる。(このあと、モーセの話になったり、ギリシア神話の話になったりした。本の説明からはズレたが、案外、こんなものなのかと思った)。

思った通り難しかった。相手が大人で宗教学的な知識があればもっと楽だっただろう。「煉獄」の発明により商人がフリーハンドで動けるようになり、それが資本主義への方向を開いた。とか、折口信夫の天皇霊の話か聖霊の問題と絡めて説明されている。とか、断片的な話をしてもけっこう伝わったと思う。でも子ども相手ではそういう楽なことはできない。

楽ができないということは、そこには学ぶべき何かがある、ということだ。次は『日本の大転換』を子どもに語ってみよう。
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