とんびの視点

まとはづれなことばかり

今日は雪だるまを作った

2013年01月14日 | 雑文
東京にはめずらしく、まとまった雪が降った。雪が降ったのでランニングはお休み。それどころか予定していた『松本竣介展』にも行けなかった。(今日が最終日なので、結局、松本竣介展には行けないことになった)。かわりと言ってはなんだが、子どもたちと雪だるまを作ったり、家の前を雪かきしたりした。雪の中で体を動かすことなんて滅多にない。ふと、雪の中の静けさを感じる。耳の聞こえなかった松本竣介の絵のことを考えたりする。

館山若潮マラソンまで2週間を切る。先週にはナンバーカードのハガキも届く。今年のナンバーは3226だ。この一年、ヒザのケガに振り回されたが、レース直前で何とかヒザを悪化させずに完走できそうな可能性が出てきた。試行錯誤したが、結局、今回のレースは月間走行目標の200kmの一部として長い距離を走る、という位置づけにした。時計はいっさい気にせずに、走りながらヒザや体と対話をし続けるために走る。そんな大会にしよう。

そう決めたら練習も気楽になった。土日と17kmずつランニングをしたが、土曜日には小学6年の長男に自転車で並走させ、いろいろ話しをした。話しといっても一方的にしゃべりまくる長男に相づちを打っている程度なのだが、学校のことや、過去のことや、土手のことや、次から次に思いつく、長男を見ていると、こういうランニングも必要だと思わされた。ランニングの時間を確保するということは、どこかで家族との時間(や他のことをする時間)を削っていることなのだ。

休日の昼ごろにランニングに行く。家を出るときに子どもたちがテレビでゲームなどをしている。1時間半~2時間走って帰ってくる。子どもたちは同じようにゲームをしている。時折、そんなことがある。そういうとき、ちょっとした罪責感を持ってしまう。本来やるべきことをやらずに、自分だけ好きなことをやっているのではないか、と。子どもが自転車で並走してくれる時期もそれほど長くはないだろう。遊んでもらえるうちに、遊んでおこう。

さてさて、先週末にかけて新聞を読んでいてかなりうんざりした。読んでいるのは東京新聞である。東京新聞は「反原発新聞」などとも言われているらしく、この新聞だけを読んでいると、原発絡みの基礎情報や、原発に対する気持ちなどが、他の人たちとは違うものになってきそうだ。僕も震災後、1年近くたって毎日新聞から東京新聞に替えたのだが、内容の違いはちょっとした驚きだった。

先週うんざりしたのは、1月11日の「除染下請け天引き横行 作業員宿泊、食事代の名目 業者支払い日給千円」(1面トップ)、13日の「国支払いの除染事業 検診・講習費作業員持ち 業者が不当利益か」(1面トップ)、12日の「原電、発電せず最高益」(2面)などの記事だ。

除染作業の問題は、国直轄の除染事業で、下請け業者が作業員の日給から半ば強制的に宿泊代や食事代を天引きしていたというものだ。国が支給する危険手当の1万円のほかは、業者は1日1000円程度しか支払っていない。いわゆる悪質なピンハネである。これはある意味、不況時の非正規雇用の劣悪な労働環境の問題と重なっている。

原電の問題は、敦賀原発などを運営する日本原子力発電が、発電を全くしていないのに最高益だったというものだ。もちろんそれを支えているのは私たちの月々の電気料金である。これは原電が悪事を働いたというより、そもそもの電力料金の不自然さが露呈したという感じだ。

どちらの問題に対しても正確な批評を加えるほどの知識は持ち合わせていない。ただ、一方では全く発電をせずに最高益をあげている。もう一方では、弱い立場の労働者が低賃金で働かされている。日本の社会のゆがみがよく表れているし、それを繋ぐのが「原発」である。その意味で、「原発」というのは今後何十年かの日本の象徴的な出来事であり続けるだろう。その意味で、日本社会の住民は「原発」絡みのできごとをウォッチし続けなければならない。

それはそれとして、除染作業員のピンハネはひどい。「うんざり」というのはまさにこの記事を読んで感じたものだ。ひどいことをする人がいるものだ。あるいは下請け業者も震災後に多額の負債を抱えているのかもしれない。それでも、より弱い立場の人間を苦しめるようにして自分が得をするようなことはすべきではない。震災後に「絆」という言葉が流行語になった。そして流行がすたれるように原発のことも人々の意識から薄れていく。それに合わせて、震災後という日常で、人間のろくでもなさが顔を出してきている。

近ごろ、「あの世」があれば良いのに、と思うことがある。悪い事をしたら来世は地獄だよ、という言葉が現世の人々の行動を良いものにするなら、「あの世」を信じる社会も悪くない気がする。科学的な原発だってこれだけの惨事を引き起こしたのだ。非科学的な信仰でも、人々の心や行動を良いものにするなら、それも悪くない。

でも、悪い事をしたら悪い結果になるし、善い事をしたら善い結果になる、というのはべつに非科学的な信仰ではない気がする。悪い事をしても構わないし、善い事をするなんて無意味だという方が、何かが崩れている気がする。崩れないように頑張ろう。

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