プロゴルファーの石川遼選手は、あるインタビューで尊敬する人はと尋ねられた際、即座に「お父さんです。」といったような返事をしたそうです。確かに、ゴルフを教えてくれた師匠のような存在である父は、彼にとって尊敬できる人物なのでしょう。私の記憶が正しければ、彼の父は息子のゴルフ上達のために、自ら小規模なゴルフコースさえ作っています。
しかし、私にとって尊敬できる人物は、昭和の終わりに亡くなった父方の祖父でした。戦争でシベリア抑留などを受け、死ぬような苦労をした分、戦後は幸せな人生を歩まれたと思います。町の教育長や保険会社の支店長を務める名誉を受けた後も、70歳すぎまで保険の外交員として働き、退職した翌日に交通事故で突然に亡くなってしまいました。
事故の1年前に、私は横浜の勤務先から成田空港に転勤となり、1年間だけでしたが自宅に戻ったことがあります。当時は、自分の部屋が弟に占領されており、自分は空いていた祖父の寝室の隣部屋で生活しました。毎日のように、24時近くまで祖父は仕事の続きや勉強をしていたようです。裁縫やアイロンがけなども、一人でこなしていました。
普段から健康に気を付けており、100歳までは長生きできると確信していました。認知症もなかったので、いつでも昔話を聞くチャンスがあると思い、孫の私は祖父とじっくり話をすることはありませんでした。交際を続けていた女房との結婚を後押ししてくれたのは祖父でしたから、今でも女房との結婚式を見せてあげられなかったことが心残りです。
しかし、私にとって尊敬できる人物は、昭和の終わりに亡くなった父方の祖父でした。戦争でシベリア抑留などを受け、死ぬような苦労をした分、戦後は幸せな人生を歩まれたと思います。町の教育長や保険会社の支店長を務める名誉を受けた後も、70歳すぎまで保険の外交員として働き、退職した翌日に交通事故で突然に亡くなってしまいました。
事故の1年前に、私は横浜の勤務先から成田空港に転勤となり、1年間だけでしたが自宅に戻ったことがあります。当時は、自分の部屋が弟に占領されており、自分は空いていた祖父の寝室の隣部屋で生活しました。毎日のように、24時近くまで祖父は仕事の続きや勉強をしていたようです。裁縫やアイロンがけなども、一人でこなしていました。
普段から健康に気を付けており、100歳までは長生きできると確信していました。認知症もなかったので、いつでも昔話を聞くチャンスがあると思い、孫の私は祖父とじっくり話をすることはありませんでした。交際を続けていた女房との結婚を後押ししてくれたのは祖父でしたから、今でも女房との結婚式を見せてあげられなかったことが心残りです。