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スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

護王神社

2022-09-30 06:15:32 | 旅 ~京都

護王神社は京都御苑蛤御門前にあり、

この前を幾度も通っていたので、いつかは行きたいと思っていた。

今回その機会が来たが、この日は急にあいにくの豪雨となり

ドシャブリの中を小走りの形だけの訪問となってしまった。

本神社は別格官幣社で現在は神社本庁の別表神社になっている。

和気清麻呂と姉の和気広虫を主祭神とし、その後藤原百川と路豊永を配祀している。

和気氏の創建による高雄山守護寺境内に作られた和気清麻呂を祀った護王善神社に始まる。

正確な創建年代は不詳だ。

この本殿は明治19年建立とまだ新しい。

平成10年(1998年)に造られた和気清麻呂像。

銘字は茶道裏千家前家元千玄室の筆でこれも新しい。

和気清麻呂は奈良時代末期から平安時代初期の貴族で、

桓武天皇に遷都を進言し平安京遷都に貢献した、いわば京都の生みの親だ。

宇佐八幡宮神託事件の際、配流に処せられながらも皇統を守ったとして

孝明天皇はその功績を讃え嘉永4年(1851年)最高位の神階を授けた。

天皇自らが人臣に対して神階を授けたのはこれが初めてのことだ。

明治16年(1886年)明治天皇の勅命により

京都御苑蛤御門付近にあった公家は中院家の邸宅跡に遷都された。

本神社は、いのしし神社の俗称もあり、足腰健康の神社としても有名だ。

和気清麻呂が宇佐へ配布された際、道鏡から送り込まれた刺客に襲われたのを

突如現れた約300頭の猪によって難事を救われたとの伝説による。

そして足腰の健康については清麻呂が刺客に襲われた際、

足に傷を負ったが、猪が去った後に足の傷も癒えた故事に由来している。

それにしてもこの写真を見ればわかるようにこの日の雨は半端な雨ではなかった。

携帯電話に地震警報の嫌な音が鳴ることがあるが、

この雨で京都北部の河川の氾濫警報が鳴ったのには驚いた。

これは初めての体験だった。

明治23年(1890年)から狛犬として狛猪が置かれ

境内には推定で4,000頭ものイノシシのコレクションがあり、

全国からイノシシに因むものが奉納されているとか。

亥年には参拝者が例年より増えるらしい。

また、2枚目の写真の花手水の猪は霊猪手水舎といわれ、

猪の鼻を触ると「足腰が良くなる」「再びここに戻って来れる」

「幸せが訪れる」等のご利益があると言われている。

幅3m高さ2mのこの大きな石は国家「君が代」に歌われているさざれ石。

大小様々な石が集まって頑強な巌になっているように見える。

この激しく降る雨の中、境内をじっくり見ることなどできず、

この写真を撮るのが精いっぱいであった。

この辺りはよく通るので次回は天気の良い時にもう一度じっくりと見に来よう。

 

 


豊国神社と方広寺

2022-09-29 06:17:39 | 旅 ~京都

前々から気になっていた神社とお寺がタクシーの運転手さん曰く

「ハイアットホテルのすぐ近くですヨ」との事で

さっそく早朝散歩で行ってみた。

確かに国立博物館の正門の隣りで目と鼻の先だった。

旧方広寺大仏殿跡地にあるこの豊国神社は京都の人々からは

「ほうこくさん」の名で親しまれているが正式な名称は「とよくにじんしゃ」。

御祭神は「太閤記」で今も広く知られているさきの関白太政大臣贈正一位豊臣秀吉公であります。

豊臣秀吉公は慶長3年(1598年)8月18日、

京都・伏見城で62年の生涯を終え、遺命により京都東山連峰の秀峰「阿弥陀ヶ峯」に埋葬された。

翌慶長4年には山腹の「太閤垣」に日本最初の権現造りで

壮麗にして雄大な社殿の造営がなされ、

後陽成天皇により「豊国大明神」の神号を与えられ神として祀られた。

その社殿は「豊国社」と呼ばれ、境域(境内の広さ)は約30万坪(約100万㎡)にのぼり、

現在神社の宝物殿に蔵する重要文化財「豊国祭礼図屏風」によっても、

当時の規模、祭事の盛大さが容易に想像できる。

神社正面石鳥居をくぐり参道を進むと、前面に威容を誇る大唐門は伏見城の遺構で、

国宝に指定されており、西本願寺・大徳寺の唐門と併せ「国宝の三唐門」と呼ばれている。

唐門正面に高く掲げてある「豊国大明神」の御神号額は後陽成天皇の御宸筆によるもので、

旧豊国社伝来の勅願である。

境内の中程にある手水舎。

看板を見ると宝物館もあり、前述の重要文化財「豊国祭礼図屏風」などが

所蔵されているようだったが早朝のため見ることができなかった。

豊臣家滅亡後この華麗な豊国社は幕府の命により廃社となり、

以後250年の長きにわたり庶民の参拝もままならず、

むなしく草むらに埋もれて跡形もなくなってしまっていた。

その後、明治維新に至り明治元年、明治天皇より再興の御沙汰をいただき、

明治6年には別格官幣社に列せられ、同13年(1880年)旧方広寺大仏殿跡地に

復興されたのが現在の豊国神社である。

秀吉公御馬印の千成ひょうたん絵馬で開運招福、諸願成就の願いにご利益がある。

明朝願い事が叶えられるように御神前に神職がご祈願の上、

御宝前に一年間奉掲されるとのことです。

境内の一角には秀吉の千成ひょうたんに因んでか、ひょうたん畑があり、

立派なひょうたんが実っていた。

今年は寅年のためか、唐門の下にひょうたんを首に下げた立派な虎の像が置いてあった。

また、唐門の両脇には秀吉恩顧の大名が寄進したという石灯籠が並んでいた。

こちらは社務所に並べられていたおみくじやお守りなどのグッズ。

当神社は早朝ということもあってあまり人気を感じない

ちょっと寂しい空気を感じた。

京都刀剣御朱印めぐりと称して栗田神社、藤森神社、建勲神社、

そして当豊国神社の4神社めぐりをやっているようだ。

こんな企画は他の神社でも見たが、今この切り口企画は流行かもしれない。

豊国神社の隣りにはひっそりと方広寺の本堂がある。

この本堂は妙法院の脇寺であった日厳院の客殿を明治初頭に移築したもの。

本尊は盧舎那仏。

通称は「大仏」または「大仏殿」。

この大仏はかつて日本一の高さ、規模を誇っていたが寛政10年(1798年)に落雷で焼失した。

これがかの有名な方広寺鐘銘事件の引き金となった「国家安康」の梵鐘。

慶長19年(1614年)豊臣秀頼が亡き父・秀吉の追善のため造った鐘である。

秀吉追善のためと表向きにはなっているが、

豊臣家の財力の消耗が狙いで徳川家康が秀頼に勧めて造らせたもの。

この鐘の上部には東福寺の僧清韓の書いた銘文が刻まれており、

その銘文の中の「国家安康」と「君臣豊楽」の八文字が徳川家康の怒りをかった。

家康の文字を二分し呪詛をはかり、

豊臣家の幸福を祈念するものだという主張であった。

これをきっかけに状況は悪化し大阪冬の陣へと向かっていった。

なお、この鐘楼の天井画は元々伏見城の女性の化粧室の天井画であった。

ここでも秀吉のシンボルひょうたんの栽培を市民活動団体がしていた。


養源院

2022-09-22 06:42:10 | 旅 ~京都

ここ養源院は豊臣秀吉の側室・淀殿が、父・浅井長政の追善のため、長政の二十一回忌に建立した。

開山は長政の従弟で比叡山の高僧であった成伯法印、

長政の院号を以って寺号としたのは文禄3年(1594年)5月である。

養源院の寺院名は浅井長政公の戒名そのものである。

その後、程なくして火災にあい焼失するも元和7年(1621年)に淀殿の妹で

二代将軍・徳川秀忠公正室、お江により伏見城の遺構を用いて再建される。

以来徳川家の菩提所となり歴代将軍の位碑をまつる寺院となった。

上の門は重要文化財の山門。

下の門は北門で勅使門か?

山門を入ると白衣弁財天堂と毘沙門天堂がある。

2つとも小さい棟だが、なかなか味がある建物だ。

山門から本堂までは長い石畳になっている。

秋の紅葉時期は後に紹介しますが、素晴らしい風情になるようだ。

この本堂(客殿)はお江が再建した時のもの。

平成28年2月に本堂(客殿)、護摩堂、中門、鐘楼堂等が国の重要文化財に指定された。

なお、護摩堂、中門は通常非公開だ。

玄関のところに徳川家の三つ葉葵の紋の幕があるが、

創建した時は豊臣家の桐紋、そして再建した時はご覧の徳川家の葵紋、

また、娘・和子が後水尾天皇の中宮として入門して菊紋と3つの紋が並ぶお寺は

日本ではここだけだそうだ。

ここが本堂の入口。

ここからは一切撮影禁止で皆さんにお伝えしたい光景ができないのが残念です。

当院の案内はどうやら住職の奥さんが1つのグループを束ねて進める完全入れ替え制。

この日も多くの来訪客がいたがテキパキとテンポ良くウィットに富んだ説明をし、

その世界に浸らしていく。

その話術、間の取り方はプロの漫才師のようで聞き入ってしまう。

このオバサン(オバアサン?)は名物女性のようだ。

本堂(客殿)の廊下の上の天井は全て血天井となる。

血天井とは関ヶ原の合戦の前哨戦である伏見城の戦い(1600年)で

豊臣方の軍勢に打ち取られる直前に伏見城内の廊下で自刃した

徳川方の兵士らをお弔いされるもので自刃した兵士らの血で染まった廊下を

寺の天井に上げて残されているものだ。

その時の徳川方の大将であった鳥居元忠公御自害の痕と伝わるものもお弔いされ残されている。

また、本堂(客殿)には俵屋宗達が描いた障壁画がある。

杉戸絵は血天井の英霊をお慰めするために御回向にちなんだ絵を描いたもので「白象」や

「唐獅子」「麒麟」等珍しい動物を描いており、

その表現が奇抜で新鮮さに溢れ、大胆な筆遣いと構図でもって描かれている。

とくにこの白象は有名で2015年琳派400年記念祭のポスターに使われた。

キャッチコピーは「日本に京都があってよかった。」だ。

他にも俵屋宗達の襖絵「岩に老松図」は今にも動き出しそうな躍動感ある

松と抽象的な表現の際立つ岩が宗達独特の技法で描かれており、

素晴らしいもので俵屋宗達の現存する唯一の襖絵となっている。

帰路の青紅葉の参道とその参道が真っ赤に紅葉した敷き紅葉の写真。

この時期機会があったらもう一度訪ねてみたくなるような素敵な写真だ。

この1枚の写真を見ると周辺の位置関係がわかると思います。

右側の朱の建物が三十三間堂。

この道の一番奥に見えるのが南大門そして左側が養源院、その先が法住寺だ。

このエリアは京都の意外に知られていないホットエリアだ。

 

 


後白河法皇陵と法住寺

2022-09-21 06:16:44 | 旅 ~京都

最近では今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で西田敏行が演じて話題になった

後白河法皇の御陵が三十三間堂裏側、

法住寺と養源院の間のひっそりと奥まったところにある。

正式には後白河天皇法住寺陵。

ここには他に5人の天皇の親王7人も祀られている。

この御陵(みささぎ)へのアプローチの間口は狭く細長い道となっていて

うっかりすると通り過ぎてしまうほど、目立たない。

御陵は昔は法住寺が守護してきた。

明治以降は宮内省(現・宮内庁)の管理する天皇陵となっていて、

土・日・祝日以外は拝所まで入ることができる。

後白河天皇は1127年10月18日(大治2年9月11日)誕生、

崩御は1192年4月26日(建久3年3月13日)65歳で崩御された。

日本の第77代天皇(在位・1155年8月23日~1158年9月5日)で

先代は近衛天皇、次代は二条天皇、平安時代である。

父親は鳥羽天皇で第4皇子として生まれ、異母弟の近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、

譲位後は34年にわたり院政をを行った。

その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、

二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、

幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。

政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、

振興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、

その後の公武関係の枠組みを構築した。

また、和歌は不得意だったが、今様を愛好して文化的に大きな足跡を残した。

源頼朝曰く「日本一の大天狗」と言わしめ、源平を翻弄する中世最大のトリックスター。

強大な権威と政治力を使い、武士たちと渡り合った型破りな巨星であった。

ここ法住寺は天台宗の寺で、永祚元年(989年)右大臣・藤原為光が、

その夫人と娘・怟子(花山天皇女御)の菩提を弔うため建てた。

当時は北は七条通、南は八条通、東は東山山麗、西は大和大路に及ぶ広大な地域を占めていた。

しかし、のちに火災し荒廃した。

保元3年(1158年)後白河天皇は法住寺の地を院の御所と定められ、上皇となって住まわれた。

その後、当寺の寺域内に蓮華王院(三十三間堂を本堂とする)や長講堂を造営された。

法住寺の本尊は不動明王。

後白河天皇ゆかりの寺である。

境内に入ると広さはあまりないが本堂、山門(竜宮造)は旧御陵の正門、

ミニ枯山水、庭園、阿弥陀堂、鎮守社、福寿観音、十三重石塔などがある。

ちなみに当寺は漫画・サザエさんの作者、長谷川町子の菩提寺でお墓がある。

法住寺正門の道路を隔てて向かい側には、あの有名な蓮華王院三十三間がある。

三十三間堂の南側に南大門(重要文化財)と言われる門がある。

この門は通常の道路として使われている。

単層切妻造の八脚門で桃山時代を代表する大規模な門の遺構で重要文化財であるのに、

タクシーや自動車、自転車など、観光や地元の人の通り道として利用されているのがすごすぎる。


妙法院門跡

2022-09-16 06:15:18 | 旅 ~京都

妙法院門跡の全景模型。

この模型は隣りのフォーシーズンズホテルにありました。

その訳は後ほど説明いたします。

当院は昨日アップした智積院の隣りにあり創建は平安時代初期。

天台宗の寺院で山号は南叡山。

本尊は普賢菩提。

開山は最澄と伝わっています。

皇族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指して「門跡」と称するが、

妙法院は青蓮院、三千院(梶井門跡)とともに「天台三門跡」と並び称されてきた名門寺院であります。

また、後白河法皇や豊臣秀吉ゆかりの寺院として知られ、

近世には方広寺(京の大仏)や蓮華王院(三十三間堂)を管理下に置き、

三十三間堂は近代以降も妙法院所管の仏堂となっています。

当院の唐門と通用門。

伽藍は西側を正門とし、東大路通りに面して唐門と通用門がある。

境内は西側正面に国宝の庫裏、右手に宸殿が建ち、本堂はその南側に建っている。

当院は秋季など、特別公開の時を除いて一般には公開されていない。

当院には「ポルトガル国印度副王信書」(国宝)など多数の文化財も所蔵しているが、

いまいちその名が知られていない。

近世初期建立の豪荘な庫裏(国宝)は令和2年11月から令和の大保存修理工事が始まり、

令和8年12月末に完成予定の大工事中であった。

この有名な庫裏は豊臣秀吉の亡父母や先祖の菩提を弔うため、

当時の日本仏教の八宗(天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、一向宗)の

僧を集めた「千僧供養」を大仏経堂で行った。

この大仏経堂は妙法院に属し、千僧供養に出仕する千人もの僧の食事を

準備した台所が現存する庫裏だとされている。

また、妙法院は幕末には三条実美や尊皇攘夷派の公卿7人が

京都から追放された七卿落ちの舞台となっている。

この庫裏は桃山時代の建物で桁行21.8メートル、梁間23.7メートル、

入母屋造り・妻入・玄関一間・唐破風本瓦葺造となっている。

内部は天井がなく小屋根を現した壮大な空間が広がります。

手前に土間、奥に板間、北側の土間にはカマドが設けられている。

北側には煙出しを設け、正面性を重視した非常に意匠の優れた建築物です。

国宝庫裏の半解体修理工事の工事施工写真。

この解体修理は大正7年以来、約100年振りの大工事となっている。

解体現場のすぐそばから写真を撮らせてもらったが、

その大きさにすごい迫力を感じたとともに、その歴史の重みも感じるものがあった。

大棟の鬼瓦には慶長9年の銘が見られる等、

数々の謎の究明や新たな発見が期待されているとの事。

この蘇鉄は明治期、東海日泰寺造営の協賛お礼として献納されたもの。

維新以来、沈滞の続く仏教界の鼓舞振興策としてタイ(旧称シャム)より

日本への仏舎利の分骨奉載を運動。

これをうけて仏教界は日本菩提会を結成。

その初代会長に当院の門主がついた。

その一連の落慶行事の象徴としてこの蘇鉄が植樹された。

妙法院門跡の境内風景。

玄関は重要文化財。

奥には土蔵収蔵庫が見える。

右奥に見えるのが妙法院。

そして手前の建物がフォーシーズンズホテル京都(2020-11-28付ブログ参照)。

2016年10月オープン。

昭和29年(1954年)に境内の一部であった庭園

「積翠園」(平重盛の別邸「小松殿」の庭園)が日本専売公社に買い取られた。

その後、京都専売病院になり、平成17年(2005年)からは東山武田病院になり、

そして平成28年(2016年)からはフォーシーズンズホテル京都になったというのが今日までの推移である。

 

 

 

このように妙法院門跡はあまり世の中に知られていないが三十三間堂の本坊であり、

後白河法皇を15代と仰ぎ、豊臣秀吉ともゆかりが深い寺院で、

しかも京都の1、2位を競うラグジュアリーホテルのフォーシーズンズホテルとも

深い関りがある寺院だということが行ってみて改めてわかった。

ここだけを見ても京都の時の重み、

一つの地に時代が重層化していくすごさを感じないわけにはいかなかった。

 

 

 


真言宗智山派総本山 智積院-Ⅱ

2022-09-15 06:10:47 | 旅 ~京都

2021-7-31付ブログ参照

智積院には昨年、閉門時間間近という中途半端な時に来たが、

今回最後に宿泊したホテルハイアットリージェンシー京都(後日、紹介します)の

すぐ近くだったので再度行ってみました。

智積院の宗団は成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高尾山薬王寺の大本山を始め、

東京都の高幡山金剛寺、名古屋市の大須賀観音寶生院を別格本山として

全国に3,000余りの寺院教会を擁し、総本山智積院は全国約30万人にのぼる

檀信徒の信仰のよりどころとして総菩提所・総祈願所と位置付けられている。

智積院は真言宗智山派の総本山。

もとは文禄元年(1592年)に豊臣秀吉が愛児鶴松のために創建した祥雲寺があったところで、

慶長5年(1600年)に玄宥僧正が家康から寺地をもらい受けて建立した。

境内にある案内表示。

金堂、明王殿、梅林園、あじさい園はここから右エリア。

左には宝物館、講堂、名勝庭園がある。

昨年も祇園祭の時期に来たのでブログに桔梗の花をアップしたが、

今年も金堂に向かう参道の両脇をたくさんの桔梗の花が彩っていて思わずシャッターを押してしまう。

ちなみに智積院の寺紋は桔梗だ。

こちらはハスの花が咲く池。

寺院にはハスの花がよく似合う。

昨年来た時はこの金堂は大規模改修の工事中であったが、すでに工事は完了し、

すっかりきれいに生まれ変わっていた。

もともとあった金堂は元禄14年(1701年)に第10世専戒僧正が発願、

宝永2年(1705年)に建立されたものでしたが、明治15年(1882年)火災により焼失。

現在の金堂は弘法大師の誕生1200年の記念事業として昭和50年(1975年)に完成。

堂内には昭和の祈りを込めた本尊大日如来が安置されている。

この明王殿は昭和22年(1947年)の火災により仮本堂であった方丈殿が焼失した際に、

明治15年に焼失した本堂の再建のため、京都四条寺町にある浄土宗の名刹

大雲院の本堂の譲渡を受け、現在の講堂である場所に移築した建物です。

その後、平成4年(1992年)に講堂再建にともなって現在の場所に移築された。

ご本尊は不動明王様で明王堂は不動堂とも呼ばれている。

各種研修の道場と使用している講堂ではブルガリの展示場として貸し出されていた。

この前はルイヴィトンの展示をやっていたとか。

お寺と有名ブランドとはかけ離れた存在に思えてしまうが、当院に限らず、

このようなコラボのアイディア・企画が最近進められているような気がする。

今、神社仏閣ではこのような発想が生きていくのに重要なことかもしれない。

前回入館できなかった宝物館には日本の障壁画の代表作として知られている国宝の

長谷川等伯「楓図」、長谷川久蔵「桜図」をはじめ数々の名作が収められているが

残念ながら一切撮影禁止でご紹介できません。

境内内の智積院の風景。


御金神社

2022-09-14 05:35:03 | 旅 ~京都

御金(みかね)神社の創建は1883年(明治16年)と、まだそんなに古くない神社だ。

はじめは個人の屋敷内に金山昆古命を祭神とする邸内社として建てられ、祀られていた。

その後、天照大御神、月読命が合祀神となった。

実はこの御金神社は気になっていた神社だったが、

タクシーの運転手さんから御金神社が宿泊しているホテルから近いと聞き、

早朝散歩で行ってみた。

この神社は金属、なかでもお金にかかわる神社として資産運用や証券取引等の成功を願ったり、

競馬、競輪などでの勝利や宝くじ等の当選を願う人々が多く参拝するという。

この神社の一番の特色はこの金色の鳥居。

黄金に輝く鳥居は正徳元年(1711年)創業の京都老舗金箔会社・堀金箔(株)の

お力添えにより屋外でも色褪せることのない塗料が施されている。

本来は建築金型と建築設計、造船など建築に関わる金型を奉納する神社で

御金の金は金属を意味していた。

しかし金属のゆかりのある祭神ということで参拝を願う人々が絶えなかったため、

1883年(明治16年)10月6日に現在地に移転、社殿が建立された。

やがて金属が転じてお金にまつわる神社となっていった。

当神社の絵馬は御神木である銀杏の葉を模した絵馬で、

銀杏は繁栄発展や不老長寿の特徴で、

八方向に広がる葉の形から末広がりにと縁起が良い。

ここに奉納された絵馬に書かれた願いを見ると他の神社にはない

率直、ストレートな思い、欲望が書かれている。

「会社がもうかりますように」、「金運が上がりますように」、

「億り人になれますように」、「金持ちと結婚できますように」、

「宝くじが当たりますように」、「パチンコに勝ちますように」・・・etc

手水の作法、参拝の作法が漫画付きでやさしく説明されているので参考にアップしました。

特に正式な手水方法を知らない人がいると思いますので。


京都御苑

2022-08-31 06:16:09 | 旅 ~京都

京都の旅2日目の朝、恒例の早朝散歩。

さーて、どこに行こうか?と考えていたら今愛読書になっている

京都存住の作家・歯科医の柏井寿氏の著作「おひとりからのひみつの京都ー

カリスマ案内人が教える48の歩き方」に書かれていた

早朝の京都御苑を思い出し早速タクシーを飛ばした。

京都御苑は京都市の中心部に位置し、

東西南北を寺町通・烏丸通・丸太町通・今出川通に区切られた区域。

東西約700m、南北約1,300mの範囲で総面積は92ヘクタール。

そのうち環境省が管理する国民公園である京都御苑は65ヘクタールである。

9ヶ所の御門と6ヶ所の切り通しを持っている。

今回の早朝散歩は広大な京都御苑の南半分(御所建礼門の南側)を約1時間、

古の京都に浸りながらゆったり散策した。

(北半分は2021-4-28付ブログ、京都御所・御苑の桜を参照してください。)

御苑・間之町口から入ると左手に「閑院宮邸跡」がある。

四親王家のひとつ閑院宮のお屋敷跡だ。

創建当時の建物は天明の大火で惜しくも消生し明治16年に新築された建屋だが、

庭園を含めて忠実に再現されているので、

在りし日の宮家を偲ぶことができる貴重な場所となっている。

初夏は青々としたもみじが映える「床みどり」、

秋には燃えるような紅葉を映す「床もみじ」が有名だ。

閑院宮邸跡の向かい側には5摂家のひとつであった九条家の現存する建物で、

今から約200年前の江戸後期に建てられた「拾翠亭」がある。

今回の散歩で悔やまれるのは九条邸跡の九条池に浮かぶ

「厳島神社」に行きはぐってしまったことだ。

ここの石の鳥居は京都三鳥居のひとつに数えられるほど珍しい鳥居だ。

公家・花山院家の邸宅内にあった鎮守社で筑紫の宗像大社から勧請された宗像神社。

この神社は薬子の変で大いに活躍し、

奈良に都を戻そうという動きを封じ込めた人物として知られている

藤原冬嗣邸の鎮守社として建てられた。

つまりここは平安京の恩人ゆかりの神社というわけだ。

実は境内にはちょっと珍しい木が植わっている。

本殿の向かい側に植わるタラヨウの木がそれだ。

多羅葉と書き、葉っぱの裏側に経文を書いたり、葉をあぶり占いに使ったりされたそうだ。

これが葉書の語源になったと言われている。

宗像神社の境内にある京都観光神社。

猿田彦大神が御祭神で京都の観光関係者が昭和45年に建立したらしい。

いかにも国際観光都市の京都らしい発想だ。

遠くに見えるのが下立売御門。

京都御苑には市民にとって犬の格好の散歩コースみたいだ。

早朝6時半というのに多勢の愛犬家が集まって一大コミュニティーができている。

苑内には動物が多くみられる。

野鳥の観測地として知られ、100種以上の野鳥が確認され、

そのうち約20種は苑内で繁殖されている。

代表的な鳥としてはアオバト、ビンズイ、トラツグミ、そしてサギもいる。

この大きなサギがゆっくり低空で飛んできたのには驚いた。

明治の東京奠都の際、御所を囲んでいた公家屋敷の大半が東京に引越し廃れてしまったため、

その荒廃ぶりを悲しんだ明治天皇の命により緑化を行い住民の憩いの場とした。

約140あった宮家と公家の邸宅が撤去されて皇宮付属地として整備され、戦後国民公園となった。

その後環境省が管理し、整備が進んだ。

京都御苑内には500種以上の植物がある。

苑内には約5万本の樹木が生育されており、マツ、ケヤキ、シイ、カシ類、イチョウなどのほか、

ウメ、モモ、サクラ、サルスベリなどの花の咲く木も多く、

これら多彩な樹々が御苑の風格と四季の彩りをなしている。

「出水の小川」を北に抜けると右手奥に鳥居が見えてくる。

ここは「白雲神社」。

この神社のすぐ北側に西園寺邸跡の駒札が立っているように、

この辺りは西園寺家の屋敷があったところだ。

西園寺家は琵琶の宗家でもあり、妙音弁財天を祀っていることから

「御所の弁天さん」とも呼ばれている。

京都といえば水。

京都の地下水は一説には琵琶湖の水量と同じくらいの量があり、

飲み水、料理の水、お茶の水としても適している軟水で、

よくこのように井戸水をいただいている光景をあちこちで見る。

いよいよこの長く立派な土壁の塀の中が御所だ。

その横に添え木に支えされた大木が一際目立って生えている。

この大きなムクの木は、この辺りが清水谷家という公家の屋敷であったことから

「清水谷家の椋」と呼ばれている。

樹齢は約300年といわれ、苑内でも数少ないムクの大木だ。

またまた京都御苑の案内図。

1枚目の地図から約30分で御所の入口建礼門のところまで来た。

目を左手に向けると幕末の一大事件・禁門の変があった蛤御門が見える。

幕府軍(会津藩、福井藩、薩摩藩、桑名藩、新選組)vs長州藩、諸藩浪士が武力衝突した。

戦いそのものは1日で終わったが、

二箇所から上がった火を火元とする大火「どんどん焼け」により

京都市街は広い範囲で街区・社寺が焼失した。

京都御所の南側と西側の写真。

南側の中央に平安京内裏の外郭門の1つ、または京都御所の門の1つ「建礼門」がある。

天皇・皇后及び外国元首級のみが通ることのできる最も格式の高い門とされている。

京都御所の建礼門の南東エリアには御所と同じくらいの広さの大宮御所・仙洞御所がある。

寛永4年(1627年)京都新城の跡地に後水尾上皇のために造営されたもので

東側には広い池を中心に庭園が広がっている。

仙洞御所の建築群は嘉永7年(1857年)の火災後再建されず

現在では庭園のみが残っている。

この仙洞御所西北に隣接する京都大宮御所は後水尾天皇の中宮であった

東福門院の女院御所として造営された。

現在では大宮御所と仙洞御所を合わせた邸宅を単に大宮御所と呼んでいる。

この京都仙洞御所・京都大宮御所そしてもちろん京都御所の築地内は宮内庁が管理している。

故に警護は皇宮警察が担当している。

因みに京都迎賓館は内閣府が、それ以外は前述したように環境省が管理している。

この南側緑地は藤原北家嫡流近衛家の庶流で公家の五摂家のひとつ。

華族の公爵家のひとつ、鷹司家の邸跡だ。

この堺町御門は朝廷の内と外とを隔てる外郭九門と

呼ばれる門のうちのひとつで京都御苑の南側にある。

幕末「八月十八日の政変」では会津藩を中心に京都御所の外郭九門を閉鎖、

藩兵によって門を警護した、ここ堺町御門の警護を任されていた

長州藩は任を解かれ長州藩に近い公郷7人とともに京を追放された。

その1年後発生したのが禁門の変で、

真木和泉、久坂玄瑞らによって福井藩が守る堺町御門が攻撃され、

久坂は堺町御門に近い鷹司邸に立て籠もったが寺島忠三郎と刺し違えて果てた。

 

 

 

京都という街が京の都を名乗っているのは長く都が置かれていたからで、

その意味はただの制度に過ぎない東京都や大阪都構想とは根本的に異なる。

都が置かれていたということは、すなわち帝がお住いになっていたわけで、

その証が今も残されている京都御所だ。

帝に親しみを持ち続けている都人は京都御苑全体を「御所」と呼んでいる。

御所の中や京都迎賓館以外であれば24時間いつでも入れて、

この日のスミダマンのように自由に歩き回れるから、

京都御苑すなわち御所は鴨川と並んで都人のオアシスとなっております。

 

 


八大神社と一乗寺下り松

2022-08-25 06:11:12 | 旅 ~京都

詩仙堂のほぼ隣りに位置している「八大神社」。

一乗寺下り松の決闘で名高き剣聖宮本武蔵ゆかりの神社でも有名だ。

創建は1294年(永仁2年)一条寺の産士神として祇園神社から勧請され、

「北天王」「北の祇園社」とも称される。

京の東北「表鬼門」に位置していることから方除の神として知られている。

https://www.hatidai-jinja.com/

当神社の旧社格は村社で、主祭神は祇園神社からの勧請ということで

すさのうの命(牛頭天王)、稲田姫命、八王子命、

また、崇徳天皇、伊予親王、藤原夫人、橘逸勢、文室宮田麻呂、吉備真備、火雷神の

八所御霊を祀ったことが八大の由来ともいわれている。

応仁・文明の乱で焼失した後、安土・桃山時代に再建され、

現在の本殿は大正時代に造営されたものです。

この宮本武蔵像は平成15年御鎮座710年を迎え武蔵の決闘から

400年を迎えることから宮本武蔵像が建立された。

これは決闘当時の再現ということで、とっても若い頃の宮本武蔵です。

慶長9年(1604年)八大神社境内地(一乗寺下り松)において、

剣聖宮本武蔵が吉岡一門と決闘したと伝わる。

この古木は決闘当時の松の一部であり、

昭和20年に神社に遷され、御神木として祀られている。

本殿の一段下の片並びに7棟並んでいたお社。

これが何かわからないが、本殿に負けずに存在感のあるお社に見えた。

当神社はこんもりした森の中に静かに佇んでいて、蝉の声が松尾芭蕉の俳句ではないが

シンシンと染み入ってきてここは一体どこ?と瞬間わからなくなるほど

人気のない印象的な神社であった。

境内の一角に置かれた木のたらい。

水の中には数色の美しい玉が沈んでいる。

これは何かと思ったが水みくじであった。

水に浸すと図柄・文字が浮かんでくるという仕掛けだ。

神社から坂を200メートル下りた左側に宮本・吉岡決闘の地「一乗寺下り松」がある。

ここは近江から比叡山を経て京に通じる平安時代からの交通の要衝で

この松は古くから旅人の目印として植え継がれ、現在の黒松は5代目に当たる。

江戸時代はじめ、この地で剣客宮本武蔵が吉岡一門数十人と決闘を行った伝説が有名で

ここから東へ200メートルのところにある八大神社の境内に

決闘を見下ろしたという初代の松の古株が保存されている。

武蔵は決闘に向かう途中、同神社で神頼みをすることを思い立ったが、

神仏に頼ろうとした自分の弱さに気付き、直前でやめたという話もある。

この一乗寺下り松のすぐ向かい側に八大神社の石鳥居、一の鳥居がある。

平安中期からこの辺りにあった一乗寺という天台宗の寺が地名の由来となったが、

南北期の動乱以降、衰えて廃絶した。

 

 


圓光寺

2022-08-24 06:01:31 | 旅 ~京都

昨日紹介した詩仙堂のごく近くの静かな住宅地の中に圓光寺はある。

当寺は瑞厳山と号し臨済宗南禅寺派に属する。

慶長6年(1601年)に徳川家康は国内数学の発展を図るため、

足利学校第9代学頭・三要元倍禅師を招き、伏見に圓光寺を建立し学校とした。

圓光寺学校が開かれると僧侶を問わず入学を許可した。

また、孔子家語・貞観政要など多くの漢籍を出版し、

これらの書物は伏見版または圓光寺版と呼ばれる。

当寺には出版に使用された木活字(重文)が現存しており、

我国出版文化史上特筆すべき寺院であるといえる。

その後、圓光寺は相国寺山内に移り、

さらに寛文7年(1667年)現在の地に移転した。

山門を入ると枯山水「奔龍庭」が目の前に広がる。

この枯山水庭園の作者は当寺の住職だと聞いた。

他の古い枯山水のお庭とは一味も二味も違うものを感じた。

渦を巻き、様々な流れを見せる白砂を雲海に見立て、

天空を自在に奔る龍を石組であらわした平成の枯山水である。

龍の頭部と背中付近にそびえ立つ石柱は、かつて当寺の井戸の部材として使われていたもの。

荒く切り立った石柱は、龍の周囲に光る稲妻をも表現し庭園全体に躍動感を与えている。

また、この庭園はあえて未完のままになっていて、

眺める方がその余白を埋め、それぞれの心の中で完成させてほしいとの事。

最後の写真の奥の方には京都の市街地が見えるように

当寺は高いところのロケーションにあるのがわかると思います。

宝物館瑞雲閣には円山応拳筆の「雨竹風竹図」(重要文化財・・・2枚目)、

松下寿老人図、渡辺始興筆(1枚目)ほか、圓光寺版(伏見版)、

木活字(重要文化財)・・・慶長4年(1599年)家康公に贈られた日本で最古の木活字。

伝運慶作本尊先手観世音菩薩坐像などの文化財がある。

このお庭は「十牛之庭」の一部。

新緑の時期には眩い緑と生命の躍動を感じる。

今キャンペーン中(6月25日~9月30日)の「そうだ京都、行こう」京の涼さがし

影の涼編では建仁寺、天龍寺、常寂光寺そして当寺圓光寺が紹介されている。

本堂玄関の正面襖絵が華やかで今風。

目にその存在を訴えてきた。

この絵は「琳派彩還」といって17世紀初頭に起こった琳派が400年後の21世紀、

螺旋状の時の流れを巡り還り、新しい時代の感性を取り入れ

彩り鮮やかに再現されることを新たな言葉「琳派彩還」として言い表している。

牛を追う牧童の様子が描かれた「十牛図」を題材にして

近世初期に造られた池泉回遊式庭園「十牛の庭」。

周囲の山々を取り込んだおおらかな造りは、

尼寺として長い歴史を持つ圓光寺の家風そのものであります。

庭園南側には洛北最古の泉水、栖龍池(5枚目の写真に少し映っている)があり、

先人たちはここからの眺めを絶景として褒めたたえたといわれている。

十牛図に描かれた牛は人間が生まれながらに持っている仏心をあらわしている。

牧童が禅の語りにいたるまでの道程であり、

懸命に探し求めていた悟りは自らの中にあったという物語だ。

応拳竹林と呼ばれている竹林が十牛之庭を囲み、それは素敵な空間を造り上げている。

本当に素晴らしい。

本堂に上がると富岡鉄斎が明治期に訪れた際に描いたという「米點山水図」や

運慶の作と伝わる御本尊「先手観世音菩薩坐像」。

そして裏には岩倉具視が作ったという茶室「待月庵」の姿も。

縁側に敷かれた緋毛氈の上に座って感慨にふけっている青年。

ポエムですネー。

絵になっていますネー。

圓光寺は明治以降、日本で唯一の尼僧専門道場でした。

その当時の禅堂が現存しており、毎日曜早朝に坐禅会を開いている。

鐘楼が境内にひっそりと建っている。

除夜の鐘撞きは素晴らしいとか。

そういえば京都には数えきれないほどのお寺があり

鐘楼を有しているところも相当あるはず。

大晦日には一斉に除夜の鐘を打つはずで市内中がどんなになっているか一度体験したいものだ。

中門から庭園「奔龍庭」を望んだ一枚。

圓光寺はあまり知られた寺ではないが、とても雰囲気のあるお寺で

すっかり気に入ってしまった。