妙法院門跡の全景模型。
この模型は隣りのフォーシーズンズホテルにありました。
その訳は後ほど説明いたします。
当院は昨日アップした智積院の隣りにあり創建は平安時代初期。
天台宗の寺院で山号は南叡山。
本尊は普賢菩提。
開山は最澄と伝わっています。
皇族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指して「門跡」と称するが、
妙法院は青蓮院、三千院(梶井門跡)とともに「天台三門跡」と並び称されてきた名門寺院であります。
また、後白河法皇や豊臣秀吉ゆかりの寺院として知られ、
近世には方広寺(京の大仏)や蓮華王院(三十三間堂)を管理下に置き、
三十三間堂は近代以降も妙法院所管の仏堂となっています。
当院の唐門と通用門。
伽藍は西側を正門とし、東大路通りに面して唐門と通用門がある。
境内は西側正面に国宝の庫裏、右手に宸殿が建ち、本堂はその南側に建っている。
当院は秋季など、特別公開の時を除いて一般には公開されていない。
当院には「ポルトガル国印度副王信書」(国宝)など多数の文化財も所蔵しているが、
いまいちその名が知られていない。
近世初期建立の豪荘な庫裏(国宝)は令和2年11月から令和の大保存修理工事が始まり、
令和8年12月末に完成予定の大工事中であった。
この有名な庫裏は豊臣秀吉の亡父母や先祖の菩提を弔うため、
当時の日本仏教の八宗(天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、一向宗)の
僧を集めた「千僧供養」を大仏経堂で行った。
この大仏経堂は妙法院に属し、千僧供養に出仕する千人もの僧の食事を
準備した台所が現存する庫裏だとされている。
また、妙法院は幕末には三条実美や尊皇攘夷派の公卿7人が
京都から追放された七卿落ちの舞台となっている。
この庫裏は桃山時代の建物で桁行21.8メートル、梁間23.7メートル、
入母屋造り・妻入・玄関一間・唐破風本瓦葺造となっている。
内部は天井がなく小屋根を現した壮大な空間が広がります。
手前に土間、奥に板間、北側の土間にはカマドが設けられている。
北側には煙出しを設け、正面性を重視した非常に意匠の優れた建築物です。
国宝庫裏の半解体修理工事の工事施工写真。
この解体修理は大正7年以来、約100年振りの大工事となっている。
解体現場のすぐそばから写真を撮らせてもらったが、
その大きさにすごい迫力を感じたとともに、その歴史の重みも感じるものがあった。
大棟の鬼瓦には慶長9年の銘が見られる等、
数々の謎の究明や新たな発見が期待されているとの事。
この蘇鉄は明治期、東海日泰寺造営の協賛お礼として献納されたもの。
維新以来、沈滞の続く仏教界の鼓舞振興策としてタイ(旧称シャム)より
日本への仏舎利の分骨奉載を運動。
これをうけて仏教界は日本菩提会を結成。
その初代会長に当院の門主がついた。
その一連の落慶行事の象徴としてこの蘇鉄が植樹された。
妙法院門跡の境内風景。
玄関は重要文化財。
奥には土蔵収蔵庫が見える。
右奥に見えるのが妙法院。
そして手前の建物がフォーシーズンズホテル京都(2020-11-28付ブログ参照)。
2016年10月オープン。
昭和29年(1954年)に境内の一部であった庭園
「積翠園」(平重盛の別邸「小松殿」の庭園)が日本専売公社に買い取られた。
その後、京都専売病院になり、平成17年(2005年)からは東山武田病院になり、
そして平成28年(2016年)からはフォーシーズンズホテル京都になったというのが今日までの推移である。
このように妙法院門跡はあまり世の中に知られていないが三十三間堂の本坊であり、
後白河法皇を15代と仰ぎ、豊臣秀吉ともゆかりが深い寺院で、
しかも京都の1、2位を競うラグジュアリーホテルのフォーシーズンズホテルとも
深い関りがある寺院だということが行ってみて改めてわかった。
ここだけを見ても京都の時の重み、
一つの地に時代が重層化していくすごさを感じないわけにはいかなかった。