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スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

史跡 詩仙堂

2022-08-23 06:12:22 | 旅 ~京都

詩仙堂は曹洞宗の寺院で山号は六六山。

本尊は馬郎婦観音(めろうふかんのん)。

現在は丈山寺という。

ここは徳川将軍家の家臣であった石川丈山が寛永12年(1672年)に90歳で没するまで

ここで詩歌三昧の生活を送っていた山荘跡であり、国の史跡に指定されている。

この門は入口に立つ「小有洞の門」。

丈山はここに「凹凸窠」十境を見たてた。

この門は参道をのぼりつめたところに立つ「老梅関の門」。

現在、詩仙堂と呼ばれているのは正しくは凹凸窠(おうとつか)であり、詩仙堂はその一室である。

凹凸窠とは、でこぼこした土地に建てた住居という意である。

ここは堂上の楼で「嘯月楼(しょうげつろう)」といわれている。

この建物を造った石川丈山は天正11年(1583年)三河国(現在の愛知県安城市)に生まれた。

石川家は父祖代々徳川譜代の臣であり、丈山も16歳で家康公に仕え、近待となった。

松平正綱、本多忠勝等はその親族である。

33歳の時、大坂夏の陣では勇躍先登の功名を立てたが、

この役を最後として徳川家を離れ、京都にて文人として藤原惺窩(せいか)に朱子学を学んだが、

老母に孝養を尽くすため、広島の浅野候に十数年仕えた。

その後、母を亡くした丈山は54歳の時に京に帰り、相国寺畔に住居した。

寛永18年(1641年)59歳で詩仙堂を造営し、没するまで30余年を清貧の中に、

聖賢の教えを自分の務めとし、寝食を忘れてこれを楽しんだ。

寛文12年(1672年)5月23日に従容として90歳の天寿を終えた。

建造物は後の寛政年間に多少変更を見たが、天災地変の難を免れ、

庭園と共に往時をそのまま偲ぶことができる。

そういえば現在の住職も石川さんという。

石川丈山の一族の方でしょうか?

堂上の楼の中に入ると立派な祭壇のある部屋に出る。

ここには禁門の変(蛤御門の変)で自害した

久坂玄瑞(25歳)と同門下の寺島忠三郎(22歳)の位碑が祀られていた。

ここは詩仙の間。

石川丈山がこの堂に掲げるべき36詩人と、その詩を選定したのは寛永18年で59歳の時であった。

これは我が国の36歌仙にならったもので、その選定には林羅山の意見も求め、

左右18人それぞれの組合せに意味をもたせた。

また、2枚目の写真に写っている大きな扇のような彫物は左甚五郎作の

伏見桃山城の欄間と言われている。

嘯月楼から見た庭園がまた素晴らしい。

詩仙堂の四季にはそれぞれ趣きがあるが特に5月下旬のさつき、11月下旬の紅葉等が素敵だという。

庭園から見た嘯月楼と読書室である至楽巣(しらくそう)から見た嘯月楼。

3層の造りが個性的でしかも趣きがありますねー。

読書室の至楽巣(猟芸巣)の間は赤のじゅうたんが市松模様に敷かれ、

他の部屋との対比になっている。

詩仙堂には以前イギリスのチャールズ皇太子ダイアナ妃も訪問したようで

その時の記念の写真が飾られていた。

部屋を渡っていくと途中で台所コーナーに出る。

京都で言うかわいらしい「おくどさん」があった。

庭園から見た母屋にはどうしてもシャッターを押したくなる。

とても風情のある素晴らしい建物だ。

こちらは母屋から少し離れたところにある残月軒。

そして庭園の下の方に百花を配したという「百花塢」。

丈山が考案した園水を利用して音響を発し鹿や猪が庭園を荒らすのを防ぎ、

丈山自身も閑寂の中にこの音を愛し老隠の慰めとしたという僧都(そうず)。

(一般的には鹿おどしともいう。)

ちなみに詩仙堂の鹿おどしが発祥の地と言われている。

すっかりこの3層の建物が気に入ってしまったので3度表側からのアップをアップしました。

いい建物ですネー!

こちらも「そうだ京都行こう」の詩仙堂が取り上げられた時のポスター。

キャッチコピーは「そんなに急いで紅葉の秋に来られちゃ、ツマンナイ。」でした。

 

 


曼殊院門跡

2022-08-22 06:17:30 | 旅 ~京都

曼殊院は、もと伝教大師の草創に始まり(8世紀)、比叡山西塔北谷にあって東尾坊と称した。

天暦元年(947年)当院の住持、是算国師は菅原氏の出であったので、

北野神社が造営されるや勅命により別当職に補せられ、

以後歴代、明治の初めまでこれを兼務した。

また、天仁年間(1108~平安後期)、学僧、忠尋座主が当院の住持であったとき、

東尾坊を改めて曼殊院と称した。

現在の池に移ったのは明暦2年(1656年)で、

桂宮智仁親王の御次男(後水尾天皇猶子)、良尚法親王の時である。

親王は当院を御所の北から修学院離宮に近い現在の池に移し、造営に苦心された。

庭園、建築ともに親王の識見、創意によるところ多く、

江戸時代初期の代表的書院建築で、その様式は桂離宮との関係が深い。

歴代、学徳優れた僧の多かった名刹である。

当院の周辺の土塁には青々とした素晴らしい苔が生え、

その上を大きな青もみじが茂り、ホッとする時間と空間を作っている。

現在は通用口になっている重要文化財の庫裡。

石造の大黒天は鎌倉時代のもの。

甲冑を帯びた姿で仏教の守護神となしている。

入口の大妻屋根の額「媚竈」は良尚親王筆。

論語八佾篇に「その奥に媚びんよりは、むしろ竈に媚びよ」を引用した。

炎天下の中、無心に草取りをしていた院の女性が印象深かった。

庫裡と次の間の間にあった小さな枯山水の庭。

手の縁に閻魔様の人形で「危険 載ってはなりませぬ」と。

庫裡(台所)の中のおくどさん。

このあたりから基本撮影禁止なので、虎の間、竹の間、孔雀の間、滝の間、十雪の間など、

いくつもある重要文化財は残念ながら紹介できない。

非常に貴重な手紙など展示されていたが撮影禁止です。

ところで門跡寺院とは皇族・貴族の子弟が代々住持となる別格寺院のことであり、

青蓮院、三千院(梶井門跡)、妙法院、毘沙門堂門跡と並び、

天台五門跡の1つに教えられている。

そして国宝の黄不動、曼殊院本古今和歌集をはじめ、

多くの文化財を有し、紅葉の名所でもある。

京都では各家の戸口にこの疫病退散の御札が貼られているのを見かける。

984年、一元三大師良源は鏡の前で心静かに瞑想していると

この骨ばかりの鬼の姿が映り、弟子にその姿を写し取らせ、

版木に彫って刷り上げ疫病退散の御札として配布した。

重要文化財の大書院、小書院の前に広がる名勝庭園指定を受けている遠州好みの枯山水庭園。

この枯山水は禅的なものと王朝風のものが結合して、日本的に展開した庭園として定評がある。

大書院、小書院の釘かくしや引手等に種々の意匠(瓢箪、扇、等又、富士の形の七宝の雲)を

こしらえたものがあり文化財の貼紙が付いている。

このふくろうの手水鉢は京都検定2級の問題に出たと坂本ドライバーが説明していたが、

2級はそんな細かい問題が多く、とてもチャレンジする気も起きない。

JR東海の「そうだ京都行こう」の秋・紅葉の曼殊院門跡を取り上げたポスター。

キャッチコピーは「一年なんてアッという間に過ぎていく。それじゃいけない。」

そういえば当院には確か30代の頃に来たっけ。

その時は真冬の1月で床が氷のように冷たく足の裏が丸くなった記憶がある。

あれから月日はアッという間に流れ、このポスターをしみじみと見入ってしまった。

人生を振り返った瞬間であった。

 

 

 

 


出町桝形商店街

2022-08-19 06:03:29 | 旅 ~京都

今年の6月、長岡京で1日お世話になった彌榮自動車の坂本ドライバーに

今日も1日一乗寺エリアを案内してもらった。

彼は広島出身で高野山の宿坊で外国人相手の仕事をした後、

3年前に外国人観光客対応のハイヤーのドライバーとしてヤサカタクシーに入社。

あいにくコロナ禍でスタートした為全く目的の仕事ができず、

最近ようやく修学旅行の生徒達の仕事で忙しくなってきたと言っていた。

彼は京都検定2級を取得。

3級取得のスミダマンとは大いに京都の話題で盛り上がる関係となった。

(2022-7-7付、京都の街あれこれPART9の6枚目参照)

この商店街は出町商店街の一角桝形通りにある全長164mのアーケードで、

食料品店や衣料品店を中心に44店舗が軒を連ねている。

また、この地は京都御苑からもほど近く、鯖街道の終点としても知られている。

先日「京都の街あれこれPART10」にもアップしましたが、

「出町ふたば」さんは伝統的な和菓子を売る、昔ながらの老舗和菓子店さん。

鴨川のそばのノスタルジックなムードが漂う商店街に明治32年から続く老舗「出町ふたば」は

平日にも関わらず店の前には途切れることのない人の列がご覧のようにずらり。

なかでも人気の「名代豆餅」。

塩茹でされた大きめな黒豆がたくさん入っている豆餅。

ふわふわ柔らかなお餅に包まれたたっぷりの大粒の豆。

全体的に塩が効いていて夏の塩分補給にもぴったりだ。

その人気の理由を4つ。

(その1)あくまでおやつの親しみやすさ

(その2)厳選した赤えんどうがアクセント

(その3)2度づきするから餅がきめ細やか

(その4)餅の風味と豆の歯ごたえが絶妙

この商店街は「ことまきプロジェクト」

「テレビアニメ作品 たまこまーけっと」「京都国際写真祭オープン会場」など、

活性化のために様々なことに取り組んでいる。

アーケードの上には「今日も元気だ!」「うれしいなあ たのしいなあ」

「いつもあなたのそばにある」などのスローガンを掲げている。

墨で書かれた手書きの文字が人の温もりを感じさせる。

鯖街道に因んで平成20年(2008年)12月にアーケードに吊られた

サバのモニュメントが造られ、公募により「わかさばちゃん」と名付けられた。

平成29年(2017年)12月28日に開館した映画館「出町座」。

最近できたばかりなのになんとなく昭和チックな香りがする。

昭和47年より天ぷら一筋で頑張っている「天鈴」さん。

うどん、和そば、生ラーメンも販売している。

京・出町・豆腐工房の「いづもや」。

国産大豆(滋賀県産)、にがりにこだわった各種豆腐、

北海道産男爵いもを使用したコロッケやカツも取り揃えている。

美味しい天然魚をより安く!をモットーに季節感・鮮度を重視した

旬魚にこだわっている「さが喜」さん。

こちらの旦那さんと話をしたがすごく感じがよかった。

活気一番、出町の「井上果物店」。

季節ごとに変わる豊富な果物を安く仕入れ頑張っている。

164メートルある商店街の反対側出口、どことなく錦市場とイメージがダブるが、

まだ観光地化されてなく、ましてやコロナ禍で、いまいち活気はなかった。

https://www.norohonten.co.jp/

とうとう来てしまいましたヨ、京漬物「出町野呂本店」。

柏井寿さん著の「おひとりからのひみつの京都」にも書かれている当店の漬物は

家庭的なやさしい自然な味わいでありながら、プロならではの小技を利かせ、

店先に並ぶどの漬物もこれぞ京漬物という至極の味がする。

当店は京都駅伊勢丹の地下の一角にほんの少し売る場があるが、基本ここでしか買えない。

実は伊勢丹浦和店でやっていた京都展に出店。

ここの若大将とは何度も会ったが、

この日は出かけていてお姉さんが対応してくれた。

(2021-11-25付ブログ7枚目参照)

鯖街道の終点にあることにちなみ、

地元の子供によりサバなどの海の生物が描かれた陶板がアーケードの歩道に埋め込まれている。

出町枡形商店街の人々の思いが伝わってくる。

 


京都の街あれこれ PART10

2022-08-17 06:20:16 | 旅 ~京都

以前予告した通り、久し振りに4泊5日という長い旅で

3年ぶりに再開した祇園祭前祭を中心に夏の京都を堪能してまいりました。

若干ロングランになると思いますが、祇園祭宵山編、祇園祭山鉾巡行編、

八坂御輿渡御編と3分に分けてアップしていきたいと考えています。

よろしくお願いします。

京都駅構内には3年ぶり復活の祇園祭を盛り上げるかのように

このようなおしらせPR看板が目に飛び込んできた。

祇園祭は前祭(さきまつり)と後祭(あとまつり)に分かれ、

それぞれ宵山、山鉾巡行を中心に7月の1ヶ月間、京都の夏を熱くさせます。

京都駅を出ると運よく駅ビル内で大行列ができる店で有名な「出町ふたば」の

名代豆餅を本日限定で販売している女性をたまたま発見。

到着早々、本当にラッキー!

豆餅3個入り660円。

このお店はTELでの予約が可能なので参考に(075-231-1658)。

「出町ふたば」さんは明治32年(1899年)創業で2018、2019、2020の百名店にもなっている。

http://aquadina.com/kyoto/spot/302/

京都の定番土産として餅菓子を中心に名物のこの名代豆餅、季節の和菓子、

水無月(初夏)、桜餅(春)、栗餅(秋)、わらび餅、大福などを扱っている。

詳細は明日「出町桝形商店街」のブログで紹介いたします。

京都初日のこの日は春に長岡京でお世話になった弥栄タクシーの

坂本ドライバーにまたお願いをした。

約1ヶ月ぶりに再会を果たした早々、彼から「昨日見た東寺(教王護国寺)の

ハスの花が素晴らしかったので最初に案内したい」と言われ、早速東寺へ向かった。

ハスの見頃は7月上旬~下旬、しかも花が咲いているのは早朝~午前中と限られている。

お昼になると花びらは閉じてしまう。

時刻は午前11時。

ご覧のように何とか間に合い、東寺の五重塔をバックに素敵なハスを撮ることができた。

4枚目の写真は春アップしたライトアップした不二桜。

ちょうど養生のためのシートが掛けられていた。

今までもアップしたと思うが京都で悪名高き(ドライバーにとって)「いけず石」。

いけずとは京言葉で意地悪。

この石は車よけのために住宅等の敷地の角や端に置かれた石で、

事故による揉め事を事前に遠回しに避ける京都の流儀にかない普及した。

歴史的には平安時代からあったようだが、現在の様式は明治以降に広がり、

現在市内に数千個あると言われている。

古い街並の京都、特に町屋の建物にはこのようなブリキの広告板がよく似合う。

日の本タビ、仁丹体温計のイメージは京都の風景にピッタリはまっている。

京都の道路標識はご覧のように英語、中国語、韓国語の3ヶ国語が書かれている。

さすが国際観光都市で、コロナ前のインバウンドブームの頃は、

随分と外国人には役に立ったことだろう。

よく見ると中国語はこの標識ではほとんど日本語と一緒だ。

たまたま偶然スミダマンが宿泊したホテル

「三井ガーデンホテル京都新町別邸」(後日詳細アップします)の目の前に

TVで何回も紹介され有名な名割烹「浜作」があった。

これにはビックリ!

「浜作」は日本最初の板前割烹で現在の主人で三代目。

最も京都らしい雰囲気が残る、ぎをん八坂神社の鳥居のすぐ近くに

90年に亘って本店を構えていましたが、つい最近こちらに移転してきた。

2枚目の写真は宿泊した部屋から撮ったもの。

早朝の新町通り。

平安時代から京都の中心街路として栄え、祇園祭の山鉾町でもある。

前祭・後祭合わせて7つの山鉾が建ち並び往時の繁栄ぶりがうかがえるエリアである。

なお、前祭で山鉾巡行が最後にこの狭い通りを巡行することは当地に来るまで知らなかった。

電柱に黄色い保護カバーがされているのは巡行で電線を守るためである。

古い歴史がある新町通りには数多くの旧跡が残されている。

ここは三井両替店旧址(新町三井家邸跡)。

貞享3年(1686年)三井高利越後屋呉服店(のちの三越)の創業者(伊勢松坂出身)が、

この地に両替店を開いて江戸・大坂・京の三都にまたがる

両替事業の本部とすると共に自らの居宅もここに移して、

事業を統括しながら晩年を過ごしたところだ。

言わばこの地が三井財閥(三井グループ)の発祥の地だ。

京都市では京都の優れた景観を守り、育て、50年後、100年後の未来へと引き継いでいくため、

建築物の高さとデザイン、屋外広告物等を全市的に見直した「新景観政策」を平成19年9月に実施した。

令和3年4月には「新景観政策の更なる進化」の一環として、

高さ規制の特例許可の対象に「まちづくりに貢献する建築物」を追加した。

このような行政指導により最近建築された建物の意匠は瓦の乗った庇を付けるなど

和をイメージした建物が増えてきているような気がする。

また、京都の建物の特色の1つとして明治・大正時代に建てられた

歴史的近代建築の保存も積極的に行われている。

三条通りにも多くの歴史的建造物がある。

・文椿ビル(旧西村貿易)・中京郵便局(旧京都中央郵便局)

・京都文化博物館(旧日本銀行京都支店)・日本生命京都支店・SACRAビル(旧不動貯蓄銀行)

・家辺徳時計店・1928ビル(旧毎日新聞京都支店)

このレンガ造の近代建築は前述の中京郵便局で

明治35年(1902年)8月竣工したネオルネッサンス様式の旧庁舎。

また、京都には絶えず新しいものを受け入れる革新的な考え方があり、

建物にも個性的な建物を多く見かける。

このベランダに沢山の彫刻物が貼り付けられた建物は京都府左官技能専修学校で、

思わず車中からシャッターを押してしまうほどインパクトがあった。

このビルはまだ新しい建物(京染会館)だが壁にレンガタイルの大きなアールの曲線を

交互に並べた革新的な意匠で素晴らしい。

その分、いかにも施工屋泣かせの設計だ。

今回の旅ではあまり舞妓さん・芸妓さんの姿を見ることがなかったが、

たまたま撮ったスナップをアップしました。

着ている浴衣が夏バージョンでかわいらしい。

最後に有名な鴨川のカップルの等間隔の法則を目の当たりにした1枚を紹介して

「PART10」を終了いたします。

カップルたちは、その時の間隔を見計らって等間隔になるように座っていきます。  

間に他のカップルが座ると、両側のカップルは自分の左右が 

等しくなるようにじわじわと移動するとか。

 

 


圓徳院

2022-08-02 06:04:36 | 旅 ~京都

豊臣秀吉没後、その妻・北政所ねねは高台寺建立を発願し、

慶長10年(1605年)秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿と前庭をこの地に移築して移り住んだ。

ねねは77歳で没するまでの19年間この地で余生を送り、

その間、北政所を慕い、大名、禅僧、茶人、歌人、画家、陶芸家等が訪れ、

この地は、ねねの終焉の地となった。

ここ圓徳院には国名勝指定で北政所の化粧御殿跡・北庭、寺宝、

森蘊博士作の南庭(平成に入ってから整備)、赤松燎作の襖絵、白龍の石碑、

そして重要文化財の長谷川等伯の障壁画の3本の石柱碑が入口のところに立っていた。

圓徳院はねねの没後9年目(寛永9年)甥の木下利房(足守藩主)が高台寺や三和和尚を開基に

木下家の菩提寺として開いた寺がある方丈は創建時のもので

内部の襖には後ほどご紹介するが長谷川等伯の三十二面の水墨画が描かれて、

国の重要文化財に指定されている。

その長谷川等伯作の障壁画「冬の絵」。

この絵は国の重要文化財に指定されている。

桐紋などを散らし、唐紙には絵は描かないのが通例だが、

この襖絵はすべて桐紋襖の上に描かれた非常に珍しいもの。

三玄院住職春屋宗園に襖絵制作を常々懇願しながら許されなかった等伯が

ある日住職が留守であることを知って客殿に駆け上がり、

腕を振るって水墨を乱点し、一貫に描き上げてしまったものだと伝えられている。

圓徳院に入って最初の部屋。

この床の間の部屋の絵は木下育應作の松竹梅図襖のようだ(?)

この部屋の襖絵は天下人・豊臣秀吉公を白龍として描いた室中襖絵で

赤松燎画伯の遺作「白龍図」。

「荒れ狂う波涛から一気に天をめざす白龍。

その姿は乱世を己が大で統一した秀吉そのものである。

武将の魂がよみがえり絢爛たる桃山の風が吹き抜ける。

今、ねね終焉の地に新たな物語が始まる。」

木下育應作 松竹梅図襖

赤松画伯の遺作となった襖絵「白龍」を引き継いで制作された

下向(げかん)の間の襖絵です。

松竹梅をテーマにしている。

圓徳院の写経は無料で一筆ずつ願いを込めて5分間。

他に写仏と称して豊臣秀吉が念持仏とされた「三面大黒天」様を写します。

三面大黒天様は笑顔の「大黒天」様、女性の「弁財天」様、

戦の「毘沙門天」様と異なるお願いを並べて持たれている神様であり、

人が生きていく際に大切な顔の功徳を強く心に描くことができます。

森蘊博士指導、徳林宗悦氏作の南庭。

ねね様を想い女性好みに合うように長屋門からこの南庭まで

年中できるだけ花や紅葉を愛でられるように工夫されている。

当院では桃山時代の気風そのままに、美しい辻が花染のきれで表装された

戦国武将の書翰や絢爛豪華な襖絵を所蔵している。

方丈・本堂から北書院への渡り廊下。

途中、檜垣の手水鉢が見える。

北政所ねねは夫・秀吉公とは当時珍しい恋愛結婚で結ばれ、生涯良きパートナーでした。

秀吉公没後は大阪城を離れ、その弔いのために高台寺を建て、

石段下のこの場所で余生を過ごされた。

親しみやすい人柄から多くの公家衆・大名婦人・文化人が圓徳院を訪れた。

享年77歳。

また、秀吉公の掛軸との比較をすると、あくまで秀吉公が主であり、

ねね様が礼をとっている。

1、秀吉公が坐(あぐらのようなもの)をかき、ねね様は膝立ち(いつでも動ける姿勢)

2、秀吉公の背景は華美ですが、ねね様の背景には何も描かれていません。

化粧御殿跡前庭には伏見城より移した庭石や枯山水庭園の石組が配された豪華なもので、

桃山時代の枯山水庭園の様式を今に伝え、国の名勝に指定されている。

この北庭は賢庭作で後に小堀遠州が手を加えた。

池泉回遊式だが枯山水となっている。

原点となるのは東北部で枯滝石組を構成し、築山を中心にして左右に多数の石組を

二等辺三角形にまとめて数群展開させ、あるいは逢菜石組を作る。

(池泉にかかる数個の橋は見事な巨石をあてているが、

その厚さからくる迫力はこの庭の特筆すべき点でもあろう。)

このように多数の巨岩大岩がふんだんに置かれている庭は珍しく、

これが桃山時代の豪華さ、豪胆さである。

境内に奉祀されている三面大黒天像は豊臣秀吉が出世時代に念持仏とした尊像であり

北政所がこの地に移され今日に至っている。

大黒天(福の神)、弁財天(学問教養)、毘沙門天(勝利・子宝の神)の三面を合わせ持ち、

一仏礼拝によって三尊天のご利益を得るという誠に秀吉らしい信仰である。

この歌仙堂では長嘯を祀っていて学問詩歌を志す人々の信仰を集めている。

因みに京都の三堂とは詩仙堂、雅仙堂、そしてこの歌仙堂を指す。

三面大黒天、歌仙堂前はちょっとした茶店街になっていて

これがなかなか味のある雰囲気、空間を造り上げている。

圓徳院は小さな古刹だが、様々な顔を持った味のあるお寺だ。

 


六波羅密寺

2022-07-28 06:00:39 | 旅 ~京都

六波羅密寺の周辺一帯は中世から近世にわたって武士が大いに活躍した舞台であった。

平安後期から鎌倉初期、貴族政治から武家政治への転換という

激動の時代を担った平家の棟梁、平清盛の泉殿をはじめ、

5千を超える平家一門の邸館が軒を連ねた六波羅第や鎌倉幕府が、

朝延の監視と市中取締り組織の六波羅探題を置いたところである。

当寺の境内に清盛の塚や、六波羅探題がこの地にあったことを記す碑が残っている。

日本最古の都七福神ノ一と福寿弁財天が祀られているお堂と

御拝観、御参拝の受付を兼ねたお土産ショップ。

両方の建物ともまだ真新しい。

ところで六波羅蜜寺と平家との関係に戻ると、清盛の祖父・平正盛から始まる。

天永元年(1110年)、この地に邸宅を構えた正盛は、

自ら常光院という寺を建立し、六波羅蜜寺で一切経の供養をしている。

その子の忠盛は、この地に軍勢を駐留させて軍事拠点とし、

白河上皇、鳥羽上皇の信を得て、越前国や播磨国の国守を歴任。

九州神崎荘では日栄貿易を行い、内裏への昇殿を許された。

これは平清盛公の塚。

そして清盛は武力と経済力を背景に武家として初めて太政大臣となり、

「平家にあらずんば人にあらず」と言われるほど絶大な権勢を誇り、政権の実権を握ったのである。

しかし清盛は養和元年(1181)に高熱を発して亡くなり、

寿永2年(1183)平家一族が西海へ落ち延びる際に六波羅蜜寺は兵火を受け、

本堂を残し諸堂ことごとく類焼した。

一願石。

願いをこめて金文字から手前に3回まわして下さいと書かれている。

六波羅蜜寺はその後も、繰り返し起こった火災や自然災害、動乱の渦中にあったが、

源頼朝や北条泰時らによって再興修復された。

特に室町幕府第二代将軍・足利義詮は、貞治2年(1363)に本堂大修営の勧進元となり、

駿河・遠江の守護大名今川範国をはじめ、

当時の名だたる武将がこぞって寄進したことが奉加状に記されているほか、

貧しい庶民の喜捨も多かったと伝わる。

安土桃山時代の天正17年(1589)には

豊臣秀吉が本堂を補修して現在の向拝を付設し、寺領70石を安堵した。

江戸時代に至っても代々の将軍から朱印状を授けられ、

諸街道の整備が全国的に進んだことから、この地はさらに多くの人々で賑わうようになった。

明治5年(1872)政府が一連の神仏分離(判然)令を発出し、神仏習合を禁じた結果、

当寺の敷地は上地等で激減し存亡の危機に陥るが、

歴代住職と信仰の方々の尽力で厳しい状況を潜り抜け、

多くの貴重な文化財が現在に引き継がれた。

現在の本堂は大修営から約660年を経過するが、

昭和40年から4年にわたる解体修理が行われた際に、創建当時のものと推定される梵字、

三鈷杵、独鈷杵の模様が刻まれた軒丸瓦や軒平瓦をはじめ、

今昔物語集や山槐記などに記載されている泥塔が約八千基も出向した。

歴史に名高い応仁の乱をはじめ、

度重なる争乱屋天災によって多くの名刹が失われた京都にあって、

六波羅蜜寺の本堂は創建当時の建築様式を現代に引き継いだ貴重な寺院建造物であり、

重要文化財に指定されている。

なお、平安時代作の本尊、十一面観世音菩薩立像は国宝だ。

本堂の裏には令和館と称する宝物館がある。

ここの文化財は入館してみてビックリ。

よく歴史の教科書に載っている像があった。

しかし撮影禁止のため、空也上人立像の資料写真だけアップします。

木造空也上人立像。

鎌倉時代の運慶の四男、康勝の作品で重要文化財。

疫病が蔓延していた京の街中を空也が鉦(かね)を鳴らし、

念仏を唱えながら悪疫退職を祈りつつ歩くさまを迫真の描写力で表現している。

空也の口からは6体の阿弥陀仏の小像が吐き出されている。

6体の阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」の6字を象徴し、

念仏を唱えるさまを視覚的に表現している。

それ以外に空也上人像の隣りに平清盛とされる経を持った僧形の像もあった。

六波羅蜜寺の近く六道の辻近くにある幽霊子育飴本館。

この飴の由来は慶長4年(1599)女性が亡くなり埋葬され、

数日後にその土の中から子供の泣き声が聞こえてきたので掘り返すと、

亡くなった女性が産んだ子どもであった。

ちょうどその頃、毎夜飴を買いに来る女性がいたが、

子どもが墓から助けられたあとは買いに来なくなったので

この飴は「幽霊子育飴」と呼ばれるようになった。


恵美須神社

2022-07-27 06:06:59 | 旅 ~京都

恵美須神社(ゑびす神社)は事代主神(ことしろぬしのかみ)、

少彦名神(すくなひこなのかみ)、大国主神(おおくにのかみ)を祀っている。

社伝によれば建久2年(1191)、栄西禅師が栄(中国)よりの帰途、船が暴風雨に遭い、

遭難しそうになったが、海上に恵美須神が現れ、その加護により難を免れたといわれ、

建仁年(1202)建仁寺創建にあたり境内に恵美須神社を祀り、

建仁寺の鎮守社としたのが当社の起こりである。

応仁の乱後、建仁寺再建の際も同所に再建され、

今なお当地の産土神として人々の崇敬を受けている。

この財布塚・名刺塚は古くなった財布や名刺の供養のため築かれたものだ。

財布塚は松下幸之助氏、名刺塚は吉村孫三郎氏が寄贈したようだ。

境内を進むとさらにもう1つ鳥居がある。

この鳥居の上部にはゑびすさんの顔が付いた網のカゴが取り付けられている。

このカゴにお賽銭が入ると縁起が良いとされている。

何度かやってみたがこれがなかなかうまくいかない。

恵美須神社は西宮神社、今宮戎神社と並んで日本三大えびすと称されていて、

地元では「えべっさん」の名で親しまれている。

本殿にお参りする時は本殿脇にある木の枠内を優しくえびす様の肩をたたくお詣りをするとか。

えびす様は耳が遠いのでお詣りに来たことを知らせるためにやるらしい。

また、えびす信仰における笹(福笹)は京都ゑびす神社独自の御礼の形態で広まったものだとされ、

「節目正しく真直に伸び」「弾力があり折れない」「葉が落ちず常に青々と繁る」といった特徴から

当神社は家運隆盛、商売繫盛、旅行安全の特徴とされ、ご利益があるといわれている。

境内には他に渡会春彦を祭神とした白太夫社、在原業平を祭神とした岩本社、

八幡神を祭神とした八幡神社、猿田彦大神を祭神とした猿田彦神社などもある。

これは当神社の立派な裏門。

なお、毎年1月10日を中心として前後5日間行われる「十日ゑびす」の大祭には

全国各地から商売繁盛、家運隆盛、交通安全を祈願するため多くの人が参詣する。


六道珍皇寺

2022-07-25 06:06:11 | 旅 ~京都

六道珍皇寺は大椿山と号し、臨済宗建仁寺派に属する。

創建は平安時代に遡り、かつては真言宗東寺に属していた。

中世期に兵禍によって荒廃したため、建仁寺僧渓良聡により南北朝時代に建仁寺所属となり

その再興がはかられ現在に至っている。

寺域は古来からの葬送の地「鳥辺野(とりのべ)」の麓で入口付近に当たることから

冥界との境界「六道の辻」と称され、お盆に帰る精霊は必ずここを通るともされた。

「六道」とは仏教でいう一切の衆生が生前の業因によって赴くとされる「地獄」「餓鬼」

「畜生」「修羅」「人間」「天上」の六種の迷界をいう。

4月29日(金祝)~5月5日(木祝)のゴールデンウィークに「薫風寺宝展」という特別展をやっていたようだ。

数知れぬほどある京都の神社仏閣では絶えずこの種の展覧会が実施されており、

ここを巡るのも京都を知る醍醐味であるが、旅人にはちょっと時間的に厳しいテーマだ。

本堂の前には六道の辻の碑がある。

本尊は平安時代前期の薬師如来座像(重文)だ。

平安時代初期の公郷・文人であった小野篁の居宅はここにあった。

篁は文武両道に優れた人物であったが、不羇な性格で「野狂」ともいわれ

奇行が多く、なぜか閻魔王宮の役人ともいわれ、昼は朝庭に出仕し、

夜は閻魔庁につとめていたという奇怪な伝説がある。

本堂の前には「魔王宮の臣 小野篁卿旧跡」と「あの世への入口 六道の辻」の提灯が

下っており他のお寺とは全く違う異様な空気感のある提灯に見えてしまう。

この鐘楼では毎年、お盆ごとに御先祖様の精霊を迎えるため8月7日から10日の4日間は

「六道参り」の行事が行われ、大勢の参詣者が冥土にも響くという梵鐘(迎え鐘)を撞き、

亡者をこの世に呼び寄せる。

四方を白壁で囲い外からは鐘が見えないようにできており、

正面中央にしつらえた小さな穴から出ている網を手前に引いて撞くようになっている。

なお「送り鐘」は中京区の矢田寺にある。

この閻魔堂(篁堂)には弘法大師、冥官伝説をもつ小野篁立像と木造閻魔王坐像が祀られている。

この写真ちょっと気になるのが早朝7時ごろお堂の格子口から撮ったもので

小野篁の頭が切れて撮れてしまったのが縁起でもない思いがする。

三界萬霊十万至聖の石塔姿と水子地蔵尊。

本堂背後の庭にある小野篁が冥界への往路に利用したと伝えられる「冥土通りの井戸」と

2011年(平成23年)に隣地民有地(内境内地)から発見された篁が

冥土より帰路に使ったと伝わる「黄泉がえりの井戸」。

この井戸は有名であるため多くの文学作品に登場している。

ホテルを出て八坂通から路地に入ったところにある北門。

早朝のため門は閉じられているため入れず。

境内にあった強烈な「飲酒運転禁止」のポスター。

「酒の臭いがしておる 嘘つくな!」。

そういえば今年4月から道路交通法が改正され、

朝夕企業ではアルコールチェックが義務付けられるようになった。

 


安井金比羅宮

2022-07-23 06:44:49 | 旅 ~京都

この東鳥居は東大路通りに面してある。

当神社は通称縁切り神社として知る人ぞ知る神社で、

今まで何度も前を通っていたが、

とても気になっていただけに早朝散歩で来ることができて

やっと来られたかという思いが強くある。

京都には一大世界的観光地だけに、このような案内地図がいたる所にある。

しかもこの看板は英語だけだが、中国語や韓国語が書かれているものも多い。

このエリアは祇園、東山地区で観光地京都の中でも名所旧跡のメッカだ。

お世話になったホテルがいかに素晴らしいロケーションであるかが

この地図を見ればわかる。

東鳥居から本殿までは想像とは違ってかなり長い参道が続いている。

前述したように当神社は悪縁を切り良縁を結ぶ祈願所、祭神として

崇徳天皇、大物主神、源頼政の3神を祀っている。

ここで由来について記してみましょう。

社伝によると保元の乱(1156年)に敗れて讃岐(香川県)で崩じた崇徳天皇の霊を慰めるため、

建治年間(1275~1277年)に大円法師が建立した光明院観勝寺が

当社の起こりといわれている。

その後、観勝寺は応仁の兵火により荒廃し、元禄8年(1695年)太泰安井(左京区)にあった

蓮華光院が当地に移建され、その鎮守として崇徳天皇に加えて

讃岐金比羅宮より観請した大物主神と源頼政を祀ったことから

安井の金比羅さんの名で知られるようになった。

桂米朝さんの肝入りでこんなタレントさんの絵馬が集まりました。

越路吹雪、横山やすし、小松左京、イーデスハンソン、夢路いとし、喜味こいし、桂枝雀など。

有名な悪縁を切る縁切り縁結び碑。

高さ1.5m、幅3m、絵馬の形をした巨石で、

中央の亀裂を通じて神様のお力が円形の穴に注がれ、

様々な願い、形代(かたしろ)、身代りのお札が貼られ碑が見えないほどだ。

1、まず御本殿に参拝

2、次に形代を持って願い事を念じながら碑の表から裏へくぐる

3、次、裏から表へ

4、最後に形代を碑に貼る

こちらは金比羅会館。

ご祈願は24時間可能だとか。

境内はご覧のように狭い。

右側には金比羅絵馬会館。

左手に入ると拝殿、本殿がある。

他にも「久志摩」という古い櫛を

供養のために築かれた塚もあり9月には櫛祭が行われている。

こちらが拝殿と本殿。

拝殿の横には各種御神札、絵馬のサンプルがガラスケースに入れられて売られている。

当宮は古来より断ち物の祈願所として信仰を集め、

幸せな男女にえにしを妨げる全ての悪縁を断ち切ってくれる。

ただし、良縁で結ばれたご夫婦やカップルがお参りされても縁が切れることはないとの事。

病気、酒、たばこ、賭け事の悪縁を切りに来ることが多いとか。

こちらは安井天満宮。

梅丸天満宮とも呼ばれ、洛陽天満宮二十五社順拝第17番礼所になっている。

北にある鳥居。

実は京都にある神社、仏閣を早朝散歩して強く感じることがある。

日中は観光客の参拝客が多くいるが、早朝は地元の人が来ていて

深い祈りを捧げている姿を多く見る。

しかしこの日は群馬県草津方面から来た女性と話す出会いがあった。

彼女曰く「昨日も日中来たが100人くらいの長い参拝客がいて、諦めて今日出直してきた。

お嬢さんの良縁を祈願に30年振りにお嬢さんと京都に来た」とか。

しばし京都で群馬、草津温泉の話で盛り上がってしまった。

遠くに小さく見える赤い鳥居が前にアップした鳥居。

この石柱の鳥居の先に「2022-7-7付、京都の街あれこれPART9」で紹介した

崇徳天皇の御霊がある。

前述したように当宮が祀っている1人がこの崇徳天皇で保元の乱で対峙する後白河法皇と兄弟になる。

 

 


祇園花見小路ナイトandデェィ

2022-07-21 06:05:49 | 旅 ~京都

昨日紹介したホテル、ザ・セレスティン京都祇園のロケーションが良いため、

夕方の割烹「八寸」から酔い覚ましを兼ねて夜の花見小路をテクテク歩きホテルに帰館。

翌日は恒例の早朝散歩で各名所をぶらり探索。

歩いているうちに早朝の花見小路にも出てしまった。

そこで「祇園花見小路ナイトandデェィ」と称して

夜と朝の花見小路の風景をスナップ的にアップしてみました。

祇園花見小路は北は三条通りから南は安井北門通りまで約1km、

祇園の中心を通るメインストリートを指す。

四条通り以南はもともと建仁寺の領地であったものが、明治以降発展した。

由緒あるお茶屋や料理屋が立ち並び、2011年電線類地中化、石畳の整備が完成し、

情緒ある町並みへと生まれ変わった。

江戸時代の花見小路は建仁寺の塔頭が並び、竹やぶの中を通る細い道であった。

明治4年(1877年)遊女解放令にともなって京都府が土地の返還(上知令)を求め、

明治6~7年頃(1873年~1874年)、祇園甲部お茶屋組合が譲り受けて祇園町の南側部分が誕生した。

明治6年(1873年)建仁寺の塔頭であった旧清住院の建物をそのまま歌舞練場として使用し、

第2回「都おどり」が開催された。

大正2年、現在耐震工事中の祇園甲部歌舞場の地に新築移転した。

花見小路をはんなり京散歩をするとフォトジェニックな京町屋と沢山出会う。

弁柄格子に犬矢来(いぬやらい)・・・軒下にある防護棚のようなもの。

いかにも京町屋の建物に夜は提灯に明かりが灯り、より妖艶な姿に風情を変える。

and

いかにも花街の雰囲気が漂う夜の祇園甲部と京都の街並の特色、路地の代表的な風景、

祇園の街の奥に入り込んだ「THIS IS 京都」の町屋風景。

このエリアは電線は地中化し、歩道は石畳に整備され、素晴らしい街並だ。

こちらはお茶屋さん。

江戸時代末期には祇園甲部にはお茶屋さんが約500軒以上あったという。

現在は56軒に減った。

因みに他の花街の現在のお茶屋の数は宮川町29軒、先斗町21軒、

上七軒10軒、祇園東7軒(2020年4月現在)だそうだ。

夜ではわからないブロンズのお洒落な道路標識も早朝散歩では足元で見ることができる。

やはり京都は歩かなくては奥深い京都の世界はわからない。