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スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

常寂光寺

2022-12-20 06:13:25 | 旅 ~京都

2021-8-23付の常寂光寺のブログの最後に

「秋の紅葉シーズンに是非もう一度訪れたいお寺だ」と記していたが、

今回最高の時期に常寂光寺に来ることができました。

https://jojakko-ji.or.jp/

江戸後期に作り変えられた山門。

一年中で最も華やかな季節を迎えたことあってご覧のように大変な賑わいだ。

インバウンドの外国の人々大勢秋の京都を満喫していたのも印象的だ。

前回も紹介したが、優しいイラスト付きの境内の案内図。

何となくホンワカした案内でとても味のある図になっている。

反面QRコードを付けて時代の先端を行く案内図の仕上げにもなっている。

山門のところには丁寧にも紅葉のポイントの仁王門、本堂前、庫裡前の紅葉写真が展示されており、

最低ここだけはしっかり見てくださいヨと言っているようだ。

山門を入ると皆一斉に「なんて綺麗なんでしょう!」と

呟いてシャッターを切っている、まさにそんな1枚だ。

山門から仁王門へ向かう参道の紅葉光景。

とりわけ当寺のもみじは太陽の日を受けて素晴らしい。

こちらが仁王門。

もと本図寺客殿の南門として貞和年間(1345~49)に建立されたものを

元和2年(1616)に当山に移築されたものだ。

仁王門から本堂に向かう石段の参道も素晴らしい紅葉が広がり、

足を止めてうっとりと見上げてしまいます。

また本堂から仁王門に迂回する下り坂の紅葉も赤くなったトンネルになっていました。

石段をさらに登っていくと紅葉と竹林のコラボ。

このグラデーションがいいですネ。

やはり竹林は京都が一番似合っている。

詩仙祠あたりから見た多宝塔。

その先に京都市街の風景が急に開けてきました。

この多宝塔は総高約12メートルあまりで均整のとれた美しい姿を示している。

元和6年(1620)8月に第2世通明院日韶上人代に建立されたとされている。

多宝塔は平安時代に密教とともに登場した新しい形式で、

内部には釈迦如来と多宝仏が安置されている。

真っ赤になった敷き紅葉があれば、真っ黄色の敷き紅葉もある。

それぞれ風情があって夢心地の世界へ誘う。

鐘楼の鐘をやさしく取り囲むように美しく色づいたもみじ。

もみじの下でゆっくり休む人も優雅に見えてきます。

庫裡の前の階段のところで立ち止まり何度も紅葉を見上げていた外国人女性がとても印象的でした。

庫裡のところの階段を下りてさらに末吉を下りたところの斜面に

見事な苔と枯れ落ちたもみじの葉のグラデーションの美しさは息を呑むようでした。

再度山門の陽に輝いた紅葉をアップしました。

常寂光寺の紅葉は噂には聞いていたけど実際に見るとはやりすごかったです。

最後になってしまいましたが、常寂光寺の歴史について記してみます。

当寺は右京区嵯峨小倉山にある日蓮宗の寺院。

山号は小倉山。

本尊は十界大曼荼羅。

平安時代に藤原定家の小倉山壮「時雨亭」があったと伝わる地です。

安土桃山時代末の文禄5年(1596年)に小笠原秀政の母で日野輝資の養女である

延寿院が開基となり、日蓮宗大本山本図寺第16世日禎の隠棲の地として当山を開いた。

その常寂光寺土のような風情から常寂光寺の寺号が付けられたとされる。

 


二尊院

2022-12-19 06:17:07 | 旅 ~京都

百人一首に詠われた小倉山のふもとに広がる二尊院。

紅葉の名所と名高く、千二百年の時を超えて美しい景観に包まれてきた。

開創したのは承知年間(834年~848年)のこと。

嵯峨天皇の勅願により慈覚大師が建立した。

明治維新までは天台宗・真言宗・律宗・浄土宗の四宗兼学の道場でしたが、

明治以降は天台宗に属している。

約5万坪の境内には、本堂、勅使門(唐門)、総門、八社宮、湛空廟、鐘楼が配されている。

又二尊院と関わりのある天皇(嵯峨天皇、士御門天皇、後土御門天皇、後嵯峨天皇、亀山天皇)の御分骨を納めると伝わ

る三帝陵がある。

さらに鷹司家、二条家、三条西家、四条家などの公家の墓陵、そして高瀬川を開拓した角倉家、

戦後の映画スター 坂東妻三郎の墓まである。

受付の総門近くには二尊院での四季の写真集が飾られていた。






総門を抜けた先に広がる、真っすぐに伸びた参道は「紅葉の馬場」と称し、紅葉の名所として親しまれている。

約百メートルの間にモミジとサクラの木が交互に植えられており、秋には赤や黄の色彩やかな紅葉のトンネルを魅せてくれる。

これが赤や黄の色彩やかな紅葉のアップです。

実に綺麗でしょう!

紅葉の馬場を過ぎて勅使門に向かう白い漆喰壁の前の見事に紅葉したモミジと苔。

本堂へと続く門は、天皇の意志を伝えるために派遣される使いの「勅使」が出入りする際に使われていた勅使門(唐門)。

弓を横にしたような形で中央が高い「唐破風形」の尾根をしている。

二尊を安置してある本堂、六間取り方丈形式の間口の広い建物は京都市指定文化財。

室町時代の応仁の乱(1467~77)の兵火で諸堂が全焼しましたが、

永正18年(1521)に三条西実隆が諸口に寄付を求めて再建した。

寺名のもととなっている二尊は、極楽往生を目指す人を此岸から送る「発遺の釈迦」と、彼岸へと迎える「来迎の弥陀」の遺迎二尊です。

中国の唐の時代に善導大師が広めた「二河白導喩」というたとえによるもので、やがて日本に伝わり法然上人に受け継がれた。

当院の遺迎二尊像(釈迦如来と阿弥陀如来)は重要文化財で鎌倉時代中頃に春日仏師によって作られたと言われている。

法然上人による七ヶ条制誠(1204年)重要文化財。

六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)に苦しむすべての衆生を救済する六地蔵菩薩。

本堂の裏手の方にあり、2体発見。

弁財天の化身である九頭龍大神・宇賀神を祀るお堂。

弁財天を祀る由来は、当院の「二尊院縁起」見られる。

他に大日如来、不動明王、毘沙門天等を安置している。

「本当の静寂とは、無音ではありません。

まっすぐに伸びた参道を通り抜けた先、紅葉の木に包まれた美しい景色の中で、一度だけ耳を澄ませてください。

日常生活では聞き逃してしまう音が聴こえてきます。

木々はゆれ、鳥は鳴き、水は流れ、そして人がいる。

二尊院の静寂はいくつもの音を呼び込み、私たちに届けてくれる。

寺院の由緒に心を満たされるとともに麗らかなひとときをお過ごしください。

自然が奏でる音色に心が和むとき、それは千二百年前から響いている音かもしれません。

お寺は決して難しい場所ではありません。

小倉山のふもと二尊院で、千二百年の静寂と出会う」

二尊院より。合掌


祇王寺(Ⅱ)と滝口寺

2022-12-17 07:08:09 | 旅 ~京都

( 祇王寺Ⅰ 青もみじ 2021-8-21付ブログ参照 )

この日は晴天に恵まれ、いよいよ京都嵯峨野の紅葉狩りを祇王寺からスタートした。

祇王寺は竹林と楓に囲まれたつつましやかな草庵で、

「平家物語」にも登場し平清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王が

清盛の心変わりにより都を追われるように去り、母と妹ともに出家、

入寺した悲恋の尼寺として知られている。

祇王寺は昔の往生院の境内にあり、往生院は法然上人の門弟良鎮によって再建されたと伝わっている。

山上山下にわたって広い寺域を占めていた往生院も後年は荒廃し、

ささやかな尼寺として残り、後に祇王寺と呼ばれるようになった。

祇王寺基地の入口にある碑には「妓王妓女往生院現往民法専建之」とあって、

この碑の右側に「性如禅尼承安二(1172)年壬辰8月15日寂」と刻まれているのは祇王のことと思われる。

祇王寺は明治初年に廃寺となったが残された墓と仏像は旧地頭の大覚寺によって保管された。

大覚寺門跡の楠玉諦師はこれを惜しみ再建を計画していた時に

元京都府知事北垣国道氏が祇王の話を聞き、

明治28年に嵯峨にあった別荘一棟を寄付された。

これが現在の祇王寺の建物です。

これらの関係から祇王寺は真言宗大覚寺派の寺院で、

旧嵯峨御所大覚寺の塔頭寺院となっている。

「五十年の夢とりどりの落葉かな」智照尼時雨に煙る小倉山、

特に祇王寺の時雨、深紅に包まれた草庵の路に、庭に、草屋根に

そして竹林にも散り紅葉が重なっていく、音もなく…。

本当に素晴らしい紅葉で言葉にもなりません。

最高の時に訪ねたのではないでしょうか。

ただただシャッターを押した写真をアップいたしました。

秋の京都嵯峨野の紅葉なんて素敵なのでしょう。

ここには詩人とカメラマンしかいませんでした。

仏壇には本尊大日如来、清盛公、祇王、祇女、母刀自、仏御前の木像が安置されている。

祇王、祇女の像は鎌倉末期の作で、作者は不明ですが眼が水晶(玉眼)で

鎌倉時代の特徴をよく表している。

控の間の大きな窓を吉野窓といい影が紅の色に見えることから「虹の窓」とも称している。

門から見た外の参道。

ここの紅葉も黄味の色でいいですネー。

祇王寺は苔でも有名で庭内には苔のサンプルが展示してある。

心は詩人、そしてプロカメラマンになったつもりで撮った。

もみじと苔とジダ(1枚)。

絵になっていませんか?

最後に枝に結び付けられたおみくじとなぜか英語が書かれた絵馬がとても気になったのでアップしました。

 

 

祇王寺からさらに石段を登っていくと滝口入道と横笛の悲恋で有名な滝口寺に着く。

入口を入ったところにあるのが新田義貞の首塚と勾当内待の供養塔。

歴史文字「太平記」に出てくる。

明治の文豪高山橒牛は平家物語に出てくる滝口と横笛の悲恋物語から取材していて

歴史小説「滝口入道」を読売新聞の懸賞小説に投じ当選、

明治文学の代表として高く評価されている。

石段の横には赤く紅葉した落葉が敷き紅葉となり美しい石段に仕上げている。

隣りの苔で美しい祇王寺の庭に比べるとあまり手取れを感じない庭が広がっていた。

かえってこれが悲恋の寺のイメージを増長していて寂しい空気が流れているように感じてしまった。

当寺はもと往生院三宝院といった。

念仏房によって創建された往生院は念仏の道場として栄え

その境内地も山上から広い地域にわたって数々の坊があったと伝えられている。

その後応仁の乱等の数々の戦乱により変遷を経て、後、祇王寺と三宝院とが浄土宗の寺として残った。

明治維新、廃寺となり、祇王寺の再建に続いて当寺も再建され、

故佐々木信綱博士が小説「滝口入道」にちなんで滝口寺と命名された。

堂内には滝口入道と横笛の木像が安置されている。

滝口寺にはうら寂しい秋の落葉の庭がよく似合う。

 

 


早朝の錦市場

2022-12-16 06:09:11 | 旅 ~京都

京都の旅2日目、恒例の早朝散歩で新京極から久しぶりの錦市場まで足を伸ばしてきました。

それは早朝でしか見られない、ある光景をカメラに納めたいと思ったからです。

(2021-3-19、2021-3-20付ブログ錦小路通Ⅰ、Ⅱ参照)

これが午前6時半の錦小路の光景。

まだほとんど人通りがなく、一部鮮魚を扱うお店が準備をしていたのが市場らしい空気を醸し出していた。

皆さんもご存知の方が多いと思いますが、江戸時代中期の奇想の絵師「伊藤若冲」(1716~1800)が

京都錦の青果問屋の生まれで丁度この場所で生まれた。

絵師となる者は専門教育を受けるのがほとんどであった中で、

若冲は独学で道を開き、85歳で亡くなるまで筆は衰えませんでした。

若冲は平成になって人気が爆発したレアな絵師です。

錦市場のアーケードの天井には日章旗と同時に伊藤若冲の作品が掲げられ

今や錦市場と若冲は一体になっている。

なぜ早朝に錦市場に来たかというともう皆さん分かったと思います。

開店前のシャッターが閉じた各店には伊藤若冲の作品がシャッターに描かれているのが、

さながら美術館を彷徨うように見て歩くことができるからであります。

開店したら見ることは出来ません。

それでは各店の伊藤若冲の作品を紹介していきましょう。

群鶏図障壁画 京都国立博物館蔵

竹梅双鶴図

伏見人形図

松鷹図

有名な果蔬涅槃図 京都国立博物館蔵

釈迦の入滅を描く涅槃図を野菜と果物によって表現した大作。

釈迦は画面中央伏せた籠の上に置かれた二股大根によって表され、

8本の沙羅双樹はトウモロコシで他も野菜果物によって表現されている。

様々な濃淡の墨を使い分け「節目描き」や墨のにじみ、かすれといった技法を駆使している。

芭蕉雄鶏図

雪中雄鶏図 細見美術館

うなぎ屋の大黒屋のシャッターに描かれた虎図

竹虎図 鹿苑寺蔵

若冲の代表作の1つ樹花鳥獣図屏風 静岡県立美術館蔵

大正時代に創業した「川政」さん。

有名旅館や料亭から一般のお客さんまで幅広い層に日々新鮮な野菜果物を提供している。

鮮魚の「近新」さん。

この店の朝は早い。

朝5時頃にはもう活動が始まっているという。

創業して約70年、小売りは一切せずプロのためだけのお店です。

やはり鮮魚店の仕事は早い。

両手に持っているのは京都の魚の代名詞「鱧(ハモ)」

400年の歴史を誇る京の台所、錦市場。

活気ある市場の中に細い路地が一筋。

その奥にある京料理店の「斗米庵(とべいあん)」は

名割烹「祇園佐々木」や料亭旅館などで約30年の経験を積み重ねた料理長が切り盛りしている。

JA全農京都が作った京の伝統野菜のポスター。

京みず菜、賀茂なす、万願寺唐辛子、聖護院だいこん、京たけのこ、えびいも、

鹿ヶ谷かぼちゃ、九条ねぎ、京山科なす、伏見甘長とうがらし、

堀川ごぼう、花菜。

これらは京ブランドの京野菜だ。

錦市場の入口150周年を迎えた新京極商店街の朝6時20分頃の風景。

この時間人気が全くない。

 


寺町通りブラ散策

2022-12-10 06:26:38 | 旅 ~京都

今年の祇園祭の時も寺町通り(御池通りから下がったエリア)を紹介しましたが、

今回は御池通りから上がったエリアを散策してきました。

(2022-9-8付スマート珈琲店、2022-9-7付鳩居堂など参照)

寺町通りは京都の南北の通りの1つで、

北は鞍馬口通から南は五条通まで全長約4.6km。

途中の三条通で以北に比べ以南は西に少しずれており、真っすぐではないのが特徴。

平安京の東京極大路にあたる。

豊臣秀吉による京都改造によって天正18年、

通りの東側に寺院が集められたことからこの名前になった。

寺を集めた目的は税の徴収の効率化と京都の防衛のためとのこと。

かつてはこの通りに路面電車が走っていたが今は静かな通りとなった。

このエリアは古美術店、家具屋、画廊、骨董店などが多く集まっているので知られている。

それではブラブラ歩きながらお店を覗いてまいりましょう。

当店は古美術の「一言堂(いちげんどう)」。

東洋美術、仏教美術、中国陶磁器、書画などを扱っている。

2017年秋オープンと新しいお店だ。

高級洋菓子店の「アッサンブラージュ・カキモト」。

ケーキとチョコが有名でかなりの有名店らしい。

建物を見るとお洒落なケーキ屋さんにはとても見えないが、これが京都です。

寺町通から東西の道に入った夷川通(えびすがわどおり)。

建具・家具屋街として有名。

家具の川上は評判らしい。

囲碁本因坊発祥の地を発見。

寂光寺の塔頭「本因坊」に住まいしていた僧侶の日海(1559~1623)は、

信長・秀吉時代から囲碁の名人として名高く、

江戸幕府が開かれると徳川家康の命によって寺を弟子に譲り、

本因坊算砂(さんさ)と改名して幕府の墓所を任された。

以降本因坊の名は世襲されてきたが、

二十一世の秀哉は真の実力者が本因坊を名乗るべきとして

その名跡を日本棋院に譲り渡し、

昭和11年(1936年)今なお続く選手権制の「本因坊戦」が誕生した。

京都で茶舗で有名な「一保堂」。

創業は1717年(享保2年)。

近江商人の渡辺利兵衛が拓いた「近江屋」がはじまり。

幕末に山階宮(やましなのみや)から「一保堂」という屋号を賜った。

「扱うお茶がおいしいから、これからはお茶一つを保つように」という思いを込めて

一保堂という屋号になったとか。

1864年蛤御門の変により店舗を焼失、現在の場所に店舗を新築した。

今や東京丸の内、ニューヨークにも店を構えている。

ご覧のように店内は大盛況。

あまりの混雑にお茶もいただけずに早々と店を出た。

一保堂店に隣接した1995年オープンの喫茶室「嘉木」。

当店も満席で入れず。

30分待ちでした。

店舗の壁の一角には、南禅寺、天龍寺、妙心寺、相国寺など

京都の名だたるお寺の御札が所狭しと貼られていた。

当店の店主はさぞ信仰心が深い方なのだろう。

一保堂の数軒隣りにはロシアンケーキ、クッキーで有名な「村上開新堂」があり、

ここでお茶しようと思っていたが残念ながら定休日にあたってしまった。

当店は明治40年に当地で西洋菓子舗として創業。

この昭和初期に建てられた洋風の建物は明治・大正の面影を色濃く残しており、

当時では大変めずらしく最も贅沢な建造物でした。

村上開新堂の近くにあったアンティークショップ新・古美術「熊谷道具處」。

この地で創業して約100年の老舗店だ。

京焼・伊万里焼・国焼などの陶磁器や御茶道具、書画などを取り扱っている。

店名はわからないがショーウインドーにディスプレイされた陶器と紅葉した枝が

素晴らしい空間を演出しているのが目に留まり入店してみた。

若い店主が色々説明をしてくれて、その知識量に圧倒され、とても勉強になった。

 


下御霊神社

2022-12-09 06:04:07 | 旅 ~京都

寺町通り丸太町を下ったところにある下御霊(しもごりょう)神社は,

平安初期の貞観5年(863年)に神泉苑で行われた御霊会で祀られた

宗道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原吉子、藤原浩嗣、橘逸勢、文屋宮田麻呂の六座に、

吉備聖霊と火雷天神を加えた八座、すなわち八所御霊を

出雲路(上京区)の地に奉祀したのが始まりであります。

いずれも無実の罪などにより非業の死を遂げた人物で、

疫病流行や天変地異はこの怨霊によるものと考えられ、それを鎮めるために御霊が祀られた。

この正門は天明の大火(1788年)後に造営された仮皇居(御所)の建札門を

下賜され移築したものと伝えられています。

大きい梁の中央に龍が飾られ、表側の化粧梁には玄武と朱雀に乗った仙人が、

裏側の梁には麒麟と鳳凰が飾られている。

境内図

御旅中に神輿が奉安され、例祭で舞楽が奉奏される建物がこの拝殿。

寛政10年(1798年)増築された。

現本殿は天明8年(1781年)の大火で旧社殿が焼失したのち、

仮皇居の内侍所仮殿を下賜され寛政3年(1791年)に移建したものです。

本神社は当初、御霊神社(上御霊神社)の南にあったことから

下御霊神社と呼ばれるようになったといわれ、

以後、社地を転々とし、天正18年(1590年)に豊臣秀吉の命により当地に移転した。

古来より、京都御所の産土神として崇敬され、享保年間(1716年~1736年)に

霊元天皇が当社に行幸し震筆の祈願丈を納めている。

ここ垂加社には、江戸時代の神道家、山崎闇斎を祀っている。

当神社の手洗舎の手水も名水として有名です。

「御霊水(ごりょうすい)」と名付けられて地域の人に愛されている。

ちなみに持ち帰る水の量は1日1回のみ20リットルまで。

これは江戸時代の天保年間に書かれた当社祭礼の「御霊祭」の絵図。

祇園祭と同じように神幸祭と還幸祭が今も行われている。

当社にも鬼門封じとして京都では多く見かける立派な南天があった。

南天は難を転ずるという意味を持つ。

 

 


蘆山寺

2022-12-08 06:11:42 | 旅 ~京都

寺町通りを挟んで梨木神社の真向いが源氏物語執筆の地、紫式部邸宅址の蘆山寺だ。

当寺は天台圓浄寺の大本山で天慶年間(1938年)比叡山第18世座主元

三大師良源(慈恵大師)が京都の北船岡山南麓に開いた興願金剛院に移まる。

本尊元三大師(良源)を安置している持ち三大師堂。

他に安置している毘沙門天像は京都七福神の1つ。

この木像どこかで見たことある。

後日ご紹介したいと思います。

境内の紅葉もちょうど見頃。

もみじも桜と同じで紅葉しないとその存在がよくわからない。

京都ではもみじの葉が下に落ちじゅうたんのようになるのを敷紅葉と表現している。

この邸宅址は考古学者角田文衛博士によって昭和40年(1965)に考証され、

新村出博士によって顕彰碑に「紫式部邸宅址」と揮毫される。

現在の本堂は寛政6年(1974)に光格天皇が仙洞御所の一部を移築し

女院、閑院宮家の御下賜でもって改築されたものである。

明治維新までは御黒戸四箇院と云って宮中の仏事を司る寺院が

4寺(蘆山寺、二尊院、般舟院、遺迎院)あり、その中の1つであった。

昭和23年(1948)圓浄寺として元の四宗兼学(丹、蜜、戒、浄)の道場となり、今日に至っている。

紫式部は百年ほど前に式部の曽祖父の中納言藤原兼輔(877~933)が

建てた「旧い家」で一生の大部分を過ごしたと言われ、

この邸宅で藤原宣孝との結婚生活を送り1人娘の賢子(たかこ)を育て、

源氏物語を執筆した。

入場券を買うところで係員の方から「今堂内で舞妓さんの撮影会やっていますヨ」との話があり、

ご覧のように源氏庭の廊下に10名ほどのカメラマン(アマorプロ?)が

真剣にファインダーを舞妓に向け様々な角度、なかには廊下に寝そべって撮っている人もいた。

ワンポーズを撮り終えると誰かが「べにを付けるポーズをとってください」とか

「まゆを描いてください」とか指示をしてまたパチャパチャ撮り始める。

思わずその熱気に誘われてスミダマンも飛び入り参加したのがこの写真です。

素人写真はどうですか?

御門仏殿(本堂)に安置されている来迎の三尊仏である阿弥陀三尊座像

(平安鎌倉時代重要文化財)と隣室に展示されていた寺宝の数々。

この中には国宝の慈恵大師遺告状(平安時代)もある。

紅葉が見頃を迎えた「源氏庭」。

平安朝の庭園の「感」を表現した白砂と苔の庭で

コンパクトでとても趣があるお庭だ。

南門のところに見事に紅葉したもみじは感動的ですらあった。

撮るのに舞妓さんと同じくらいシャッターに集中した。

当寺には慶光天皇の墳墓はじめ貴族方のお墓が多数ある。

また仏師定朝、画家住吉如慶、具慶、狩野正桜、

「源氏物語」注釈書「岷江入楚」筆者、中院通院、明治天皇曽祖父中山愛親、

光格天皇御生母大江磐代などの墳墓もある。

 


梨木神社

2022-12-07 06:23:57 | 旅 ~京都

京都御苑東に鎮座する梨木神社(なしのきじんじゃ)は

明治18年(1885年)に創建された旧別格官幣社で、

明治維新の功労者三條実萬公・実美公父子を祀り、

三條家の旧邸が梨木町にあったことにちなんで名づけられた。

前述の鳥居から次の鳥居の間になんとマンションが建っているではないか!

これは当神社が社殿の修復等の資金集めに苦慮していた2013年、

境内の参道を含む土地をマンション開発事業に60年の期限付きで貸し、

その地代を社殿の修復費用に充てる計画をたてた。

しかしその計画が神社本庁の承認を得られなかったことから

神社本庁から離脱をし単立神社となったとか。

この分譲マンションは平成27年に完成。

60年後には更地にして土地は梨木神社に返還される予定という。

何かすごい話ですネ。

ということで見た目にはこの2番目の鳥居から神社の境内がはじまるといった感じだ。

2022年秋、京都梨木神社にて新たな夜の拝観が始まった。

「光の宮」と称して、SDGs先進都市京都にふさわしい環境配慮型のナイトプログラムとして

伝統的な和ろうそくによる灯りの演出、そして拝殿で舞踏が行われるそうだ。

当社「萩の会」初代会長で、日本人初のノーベル賞受賞者の湯川秀樹博士の歌碑。

湯川博士は生涯のほとんどを京都大学名誉教授など歴任され、京都で過ごした。

ここは社務所と茶室「虚中庵」。

当神社の名水染井の井戸のお茶をいただくことができる。

ご祭神の1人、右大臣正一位三條実萬公は当時「今天神」と人々から尊称され、

才色兼備のお方であった。

光格・仁孝・孝明三天皇に仕え、皇室の中興に尽くし、

王政復古の大義を唱えて、明治維新の原動力ともなられ、

安政の大獄の折、幕府より圧迫を受けて一乗寺村に幽居の後、58歳で没された。

明治2年、その功績を愛で、天皇より「忠成公」の諡を賜り、

同8年10月旧邸の地名にちなみ梨木神社として創祀せられるに至った。

実美公は父実萬公の遺志を継ぎ、朝威回復、攘夷決行の急進派少壮公郷の中心人物として活躍。

しかし文久3年8月18日の政変で頓挫し同志の公郷と共に長州西国に赴かれ、

銀難辛苦を経て、維新の大業を達成せられた。

そして明治維新では右大臣・太政大臣・内大臣等を歴任された明治の元勲である。

公は明治2年東京へ遷都の際、御所廃止の論が起こるもこれに極力反対された。

今日なお栄えて在る京都の大恩人である。

のち大正4年、大正天皇即位ご大典の折、合祀せられた。

当境内には約500株の萩が植えられており、別格萩の宮とも当社は呼ばれており、

9月中旬から下旬には萩祭りがおこなわれる。

拝殿の周囲ももみじ、萩の紅葉がちょうど見頃の頃となり、美しく色づいていた。

晴れていればもっと美しかっただろうに。

本殿の中では結婚式が執り行われていた。

格子越しの向こうでは白無垢姿の花嫁がとても神聖な姿に見えた。

京都では各神社・お寺でこのような光景を多く見ることがある。

やはり京都の結婚式は「和」が似合う。

梨木神社でもう1つ有名なのがこの御神水「染井」。

京都三代名水(京都御苑の縣井、堀川通五条西入った左女牛井とここ染井の水)

の1つで現存している唯一の水で飲料にもできる。

ちなみにお水汲み1回(5リットルまで)100円を奉納する。

前述したように当神社の隣りは京都御苑。

清和院御門でいかにも御公家さんは御所の近くに住んでいたかがわかる。


「そうだ京都、行こう」

2022-12-03 06:03:54 | 旅 ~京都

これが今年秋の「そうだ京都、行こう」のイメージポスターです。

キャッチコピーは「秋が待ち遠しかった。と語る人は今年もきっと多い。

私がそうであるように。」

実はスミダマンもそうだ。

この美しい紅葉のお寺は紅葉の名所として知られる高野の神護寺です。

こちらは蘆山寺の山門の紅葉。

詳しくは後日アップします。

実は昨年京都へ出発する前日に体調を崩し医師にドクターストップ。

(新型コロナ感染の疑いがあり。結果は陰性でした。)で

急遽予定が中止になったことがありました。

今回は同じ日程を組み、昨年のリベンジといさんでいたところ、

今年も直前にいろいろとゴタゴタガあって今年もまたダメかと思っていたが

なんとか行けるようになり、この日を迎えました。

4泊5日の長い旅であったが満喫した紅葉の秋の京都を

これから約1ヶ月半ほどかけて連載していきますので、

お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。

これが京都駅に着いた時のタクシー乗り場の風景。

今まで見たことのない長蛇の列に話は聞いていたが、

改めて京都の人出のすごさを実感いたしました。

これは全国旅行支援と地域クーポン実施が

大きく背中を押している事は間違いないと思います。

旅するといろいろな出会いが待っていますが、

前述の蘆山寺でさっそく舞妓さんの写真撮影会に出くわし、

飛び入り参加をしてしまいました。

この1枚は苔で有名な嵯峨野の祇王寺で撮った苔と紅葉の物語。

この旅ではこんなポエムの場面と向かい合い、詩人になってしまうスミダマンでした。

こちらはやはり紅葉の名所、嵯峨野、二尊院の紅葉の馬場で撮った1枚。

タクシーのドライバー曰く、「京都は桜の季節よりも紅葉の季節の方が人が出る」とか。

日に当たった紅葉(もみじ)はとにかく美しい。

今回気が付いたひとつにコロナ禍ですっかりいなくなったインバウンド客が

今年のキャッチコピー通り、京都、日本の秋が待ち遠しくて多勢外国人が

京都に観光に来ていたのが、あちこちで見受けられた。

かたや、京都の風物詩になっている女性観光客の着物姿もチラホラ見られ、

いかにも京都の街に溶け込んで雅の雰囲気作りに貢献している。

コロナ以前にはものすごく大勢の浴衣姿を見たが、

この女性達はほとんど中国からの観光客と聞いた。

タクシードライバー曰く「まだ中国からの団体はほとんど見ない」とのこと。

しかし、徐々に通常の京都に戻りつつあることを感じた次第です。


京都の街あれこれ  PART11

2022-10-04 06:21:15 | 旅 ~京都

この京都市役所本庁舎は昭和2年(1927年)竣工で政令指定都市の市役所では一番古くからあるものだ。

本庁舎の設計は武田五一、中野進一。

以前見た時は大規模改修が行われていた。

(2020-12-2付ブログ参照)

本庁舎前の広場では度々イベントが開催される。

麩屋町通りに面してその風情を誇っている京都を代表する、

いや日本を代表する日本旅館3軒がある。

1軒目は御池通に一番近いところにある「柊家(ひいらぎや)」。

創業は文政元年(1818年)。

この旧館は木造2階建の純和風で2006年3月、

伝統に新しい意匠を加えた鉄筋3階建の新館が完成した。

客室内風呂のいずれも高野檜の浴槽と京都の井戸水を使用している。

だいぶ昔に一度泊まったことがあったっけ。

柊家のほぼ向かい側にあるのが日本一のおもてなし、

憧れの高級旅館と定評の「俵屋」。

宝永年間創業、約300年の歴史と伝統を今に継承している。

ここはVIPの定宿で公式HPがない知る人ぞ知る超有名旅館。

オリジナルの石鹸が有名。

是非一回は泊まってゆっくり旅館内で過ごしてみたいと切に思っている。

柊家、俵屋から少し下ったところにある「炭屋」。

京都の町中とは思えない静けさをたたえる数寄屋造りの名旅館で、創業は大正の初め。

ここは毎月2日間、茶室で釜を懸けおもてなしをする

茶の湯の心を感じられる老舗の宿だ。

寺町通を歩いていくと偶然、通称矢田地蔵と呼ばれている矢田寺のところに出た。

平安時代初期、大和国の矢田寺の別院として創建され、以後、寺地を転々とし、

天生7年(1579年)に現在地に移されたといわれている。

当寺の梵鐘は送り鐘と呼ばれ、死者の霊を迷わず冥土へ送るために撞く鐘として信仰されている。

また、本尊は地蔵菩薩(矢田地蔵)で俗に代受苦地蔵と呼ばれ、

地獄で亡者を救う地蔵として人々の信仰を集めている。

実は当寺で写真を6枚撮ったが、そのうち3枚がボケて撮れてしまった。

何か霊が邪魔をしていると変に考えてしまった。

早朝散歩でタクシー運転手から聞いた本当の本能寺跡に行ってきました。

ここで織田信長が明智光秀に暗殺されたところ(油小路通)。

今はご覧のように老人ホームになっている。

改めて京都のタクシー運転手は色々な情報を知っているのでビックリだ。

やはり早朝散歩をしていたら今年約200年ぶりに祇園祭に復活した鷹山の粽を発見してしまった。

早朝は目も頭も冴えているのがこれを見てもわかる。

いくつもある京都らしい風景のひとつ「犬矢来」。

軒下にある棚のことで犬の放尿よけということで犬矢来という。

大通りに面したビルのところにもこのように

ステンレスでできた犬矢来を設けるとは、いかにも京都だ。

御池通と釜座通のところに小さくポツンと立っていた石碑を発見。

「肥前鹿島鍋島藩屋敷跡」。

京都には江戸大名屋敷と同じように武家屋敷が多くあった。

都の情報を取る各藩の出先機関だ。

昭和24年に全国に普及した「郵便差出箱一号丸型」という名称の郵便ポスト。

昭和60年には約15万個設置されていた。

これは京都で最初に設置されたもので記念して永く文化的に保存されている。(新町通沿い)

八竹庵(旧川崎家住宅)は祇園祭でも多くの山鉾が並ぶ新町通沿いの京町家。

大正時代の建築で設計には近代京都の代表的建築家・武田五一も設計に参加している。

京都市指定有形文化財だ。

新町通に立てられていた羽柴秀吉旅宿跡の石碑。

まだ真新しい石碑(よく見ると今年6月に建立したようだ)で、NPO法人が立てたらしい。

このような歴史上の人物が泊まった宿まで広げていくと

京都は石碑だらけになってしまうのではないか。

以前にも当ブログにアップした祇園石段下の京寿司「いづ重」さんが現在建築中となっていた。

NHKのノーナレで放映された「祇園の神さん」の主人公・いづ重の北村大将の思いが通じて

今年3年ぶりで祇園祭、御輿渡御が実現した。

この新店舗が完成したら是非お祝儀を持ってまた行ってみたいものだ。

妙法院横に延びるゆったりした坂道の先には豊臣秀吉公の墓所である豊国廟参道がある。

そしてその途中には京都の名門私立・京都女子学園(幼稚園から大学院まで)がある。

ここも一度ゆっくり歩いてみたいものだ。

妙法院のブログでも紹介したが、

妙法院の境内を歩いていくとフォーシーズンズホテルの裏側に出る。

表門は幾度も来たが裏門のアプローチ玄関の庇も正門のデザインと同じで傘のようだ。