昨日紹介した詩仙堂のごく近くの静かな住宅地の中に圓光寺はある。
当寺は瑞厳山と号し臨済宗南禅寺派に属する。
慶長6年(1601年)に徳川家康は国内数学の発展を図るため、
足利学校第9代学頭・三要元倍禅師を招き、伏見に圓光寺を建立し学校とした。
圓光寺学校が開かれると僧侶を問わず入学を許可した。
また、孔子家語・貞観政要など多くの漢籍を出版し、
これらの書物は伏見版または圓光寺版と呼ばれる。
当寺には出版に使用された木活字(重文)が現存しており、
我国出版文化史上特筆すべき寺院であるといえる。
その後、圓光寺は相国寺山内に移り、
さらに寛文7年(1667年)現在の地に移転した。
山門を入ると枯山水「奔龍庭」が目の前に広がる。
この枯山水庭園の作者は当寺の住職だと聞いた。
他の古い枯山水のお庭とは一味も二味も違うものを感じた。
渦を巻き、様々な流れを見せる白砂を雲海に見立て、
天空を自在に奔る龍を石組であらわした平成の枯山水である。
龍の頭部と背中付近にそびえ立つ石柱は、かつて当寺の井戸の部材として使われていたもの。
荒く切り立った石柱は、龍の周囲に光る稲妻をも表現し庭園全体に躍動感を与えている。
また、この庭園はあえて未完のままになっていて、
眺める方がその余白を埋め、それぞれの心の中で完成させてほしいとの事。
最後の写真の奥の方には京都の市街地が見えるように
当寺は高いところのロケーションにあるのがわかると思います。
宝物館瑞雲閣には円山応拳筆の「雨竹風竹図」(重要文化財・・・2枚目)、
松下寿老人図、渡辺始興筆(1枚目)ほか、圓光寺版(伏見版)、
木活字(重要文化財)・・・慶長4年(1599年)家康公に贈られた日本で最古の木活字。
伝運慶作本尊先手観世音菩薩坐像などの文化財がある。
このお庭は「十牛之庭」の一部。
新緑の時期には眩い緑と生命の躍動を感じる。
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影の涼編では建仁寺、天龍寺、常寂光寺そして当寺圓光寺が紹介されている。
本堂玄関の正面襖絵が華やかで今風。
目にその存在を訴えてきた。
この絵は「琳派彩還」といって17世紀初頭に起こった琳派が400年後の21世紀、
螺旋状の時の流れを巡り還り、新しい時代の感性を取り入れ
彩り鮮やかに再現されることを新たな言葉「琳派彩還」として言い表している。
牛を追う牧童の様子が描かれた「十牛図」を題材にして
近世初期に造られた池泉回遊式庭園「十牛の庭」。
周囲の山々を取り込んだおおらかな造りは、
尼寺として長い歴史を持つ圓光寺の家風そのものであります。
庭園南側には洛北最古の泉水、栖龍池(5枚目の写真に少し映っている)があり、
先人たちはここからの眺めを絶景として褒めたたえたといわれている。
十牛図に描かれた牛は人間が生まれながらに持っている仏心をあらわしている。
牧童が禅の語りにいたるまでの道程であり、
懸命に探し求めていた悟りは自らの中にあったという物語だ。
応拳竹林と呼ばれている竹林が十牛之庭を囲み、それは素敵な空間を造り上げている。
本当に素晴らしい。
本堂に上がると富岡鉄斎が明治期に訪れた際に描いたという「米點山水図」や
運慶の作と伝わる御本尊「先手観世音菩薩坐像」。
そして裏には岩倉具視が作ったという茶室「待月庵」の姿も。
縁側に敷かれた緋毛氈の上に座って感慨にふけっている青年。
ポエムですネー。
絵になっていますネー。
圓光寺は明治以降、日本で唯一の尼僧専門道場でした。
その当時の禅堂が現存しており、毎日曜早朝に坐禅会を開いている。
鐘楼が境内にひっそりと建っている。
除夜の鐘撞きは素晴らしいとか。
そういえば京都には数えきれないほどのお寺があり
鐘楼を有しているところも相当あるはず。
大晦日には一斉に除夜の鐘を打つはずで市内中がどんなになっているか一度体験したいものだ。
中門から庭園「奔龍庭」を望んだ一枚。
圓光寺はあまり知られた寺ではないが、とても雰囲気のあるお寺で
すっかり気に入ってしまった。