五木寛之先生の著『生きるヒント2』(Gakekn)の「乱れ」の話の序に、
自然も人間も規則正しい一定のリズムをもっている
と同時に、乱調もどこかに隠している。
乱れることを気にしない。
これもまた人間のもう一つの知恵なのではないでし
ょうか。
という言葉が書かれている。ここに「自然」と「人間」が同一の地盤において規則性の比較において「一定のリズム」という言葉で結ばれています。
人間も自然の一員とするならば「一定のリズム」を刻む存在としてあることは自明であり、何をもって安定であり乱調であるかはその判断者の基準に基づきますが「乱調」という災厄の事態は「ある」ことにおいて暗黙の了解の内にあります。
説明尽せない事態の到来を直観的に気づく。
このままでは災厄は避けられないし、危い事態に陥る。
「物心二元論」の世界観ならばネイチァーとヒューマンの対比において自然科学的に「事」を解釈するに違いなく、そこには法則的な必然性を導き出し納得することになる。
そのような段階を踏むならば帰結としてそういう事態になる可能性が高い。
結果予測はそのような法則的な必然性において成立する。現代人はどうもそのような思考習性を備えるに至っているようです。
しかし自然について、古典的な渾沌からのおのずからの然りの世界、「ある」ことは根源的な空虚感からの立ち現れとして直観的な自然認識で接するならば「諦念」という言葉も、また「無常観・感」という言葉も、単純な「あきらめ【諦め】」ではないが「乱れることも気にしない」人間のもう一つの知恵といってもいいように思う。
哲学は我々の自己の自己矛盾の事実より始まるのである。哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない。(西田幾多郎『場所の自己限定としての意識作用』の末葉の言葉)
現実世界を胡蝶の舞と見る人も、難しい哲学的な言葉で語る人もある意味、リアルな世界を突きつけられているように思う。
静寂なる安泰の中に生きたいものですが、どうも乱調に立たされるのが実際のようです。
静寂主義には敬虔主義が・・・人は現象に何事かを考え語り、行動しないではいられない存在のようです。