毎日の生活のなかで物事を見聞きし、何かしかのおも【思・想】いを懐き、みずから作為的な行動に移すこともあれば、不作為に時を過ごすこともあります。
見るという言葉や聞くという言葉には、自分という主体が主人公になり外界に向けて意思が働いています。
山を見、林を見、鳥の声を聞き、風音を聞く。
人を見、人の声を聞く。
ということになるわけですが、見えているもの聞えるものがそこに見え、そこに聞えるときに、
おも【思・想】いの中に割り込んでくるもの。
があると、
私が見ているつもりでも、ひょっとすると見させて頂いている。
聞いているつもりでも、ひょっとして聞かせて頂いている。
という境地が現われる時があります。
なぜにそのようなものが見え、そのようなことを聞かなければならないのか。
そのような体験や経験がかつて在り、今まさにあり、これからもそれが継続するであろうかとおも【思・想】うと、
見させて頂いている。
聞かせて頂いている。
などと、「頂いている」という敬語的な尊さの内に身を置くことができるであろうか。
見聞きすることが心地良さの中にあるならばありがたさに涙がこぼるることもあろうが、悲哀に満ち満ちた事態であるならば「頂いている」などという心境は現れことはないであろうとおも【思・想】う。
こんな言葉があります。
ただわが身をも心をも、はなちわすれて、
仏のいへになげいれて、仏のかたより
おこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、
ちからをもいれず、こころをも、
つひやさずして、生死をはなれ仏となる。
(道元「正法眼蔵」生死の巻より)
道元さんの言葉ですが、
おも【思・想】いの中に割り込んでくるもの。
それが何かは分りませんが、只中に、真中(まなか)の時に「頂いている」が現われることがあります。
仏になる可能性・・・いわゆる仏性が在るか無いかの問いを発するまでもなく、「仏の声を聞く」ことが「ある」と・・・。
きく文化(4)・「“聴く”という生き方」と「魂への配慮」
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/b8afeba7d3e2b8a97559d314be98c242
思考を思考する・万象に感応し咀嚼し叡智を愛する。
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/867a731e6a4222495736556c436e9f33
などといろいろな思いを書き続けてきましたが、歳とともにその世界が頂戴したくなりました。
どんな思いが入り込み、人を支配するのか。
き【聞・聴】く耳を持っていない人間がいるのだろうか。