早朝の田圃道を下り夜明けのなか薬師堂参りを行なう。標高700m、昼間の松本市内の暑さが恐ろしくなります。
「吾々のいるところは現在であって、その現在から時が考えられるべきである。時は、現在を中心にして、それから過去、未来という風に考えられるのである。四世紀の頃、アウグスチヌスも、懺悔録の中で言っているのであるが、時は普通、過去、現在、未来という風に考えているが、しかし時はいつでも現在のうちにのみ考えられる。過去と考えているとき、考えているところに在るのであり、未来と思っているとき、思っているところにあるのである。従って、現在の過去、現在の現在、現在の未来というものがあるのである。これは自分というものがあるからである。即ち、過去は記憶である。現在は直覚するのである。未来は待ち受けることである。」(『語る西田哲学ー西田幾多郎談話・対談・講演集』書肆心水・「時と人格」p29)
西田先生の言葉とは思えないほどわかり易い言葉。
歩を進める中に刻みがあるのですが、朝の風景は体感とともに何かを大いに何かを語っているように思う。
鳥のさえずりや稲の葉に付く朝露。
過ぎ去った過去に惑わされ、来たらざる未来に一喜一憂する、わが身が恥ずかしい。
朝露の黄金の輝きは何を語るのか。
我は今の刻みに身を置く。