思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

自然界に対する立法者

2015年07月20日 | 思考探究

万葉集第3849に、

 生死(いきしに)の 二つの海を 厭(いと)はしみ
 潮干(しほひ)の山を しのひつるかも

という歌があります。次の第3850が、

 世間の 繁き仮盧に 住み住みて
 至らむ国の たづき知らずも

でこの二首は河原寺の仏堂の中の倭琴(やまとこと)の面に落書きしてあった歌で作者は従ってわかりません。

 明日香村の河原寺には伎楽団があったことから楽団員の琴演奏家がなかなかいい歌だろうと、自慢げに書いたものだろうか・・・。

 楽団員は舶来の学問として仏教を学んでいたようで、仏教の教えがこのような世界観を、説くに至らしめたということが言えそうです。

 東国の農民ならば日々の暮らしの中からこのような歌は作ることないでしょう。ある階層に生き仏教的な知識を習得し、しがらみの中に悲哀を見、文字を使い意の内を語ったその表現として上記の二首の歌になっているのです。

 「生き死にの二つの海」とは何か。『華厳経』というお経の中に「何能度生死海入仏智海(なんぞよくしょうじのうみをわたりてぶつちのうみにいらん)」という言葉があって、仏の知恵を般若といい、般若の船にのって生死の海を渡るという意味のようで、最初の第3849の歌は、

 「海は潮が満ちたり引いたりすることにより、生の海だったり、死の海だったりする二つの世界をもっているが、その生死の二つの海を厭わしく思って、潮の満ち干のない山が慕わしい。」

という意味のようです(中西進著『万葉秀歌選三』四季社・p109)。

 楽団員は、海の潮の満ち引きが、人生の悲哀、浮き沈み語っているように感じたのでしょう。この無常は厭わしいもの、不愉快で嫌なものと解していたようです。世間は無常なものという無常感を当時の知識層は仏教から学んだようですが、「無常住」という仏教の教えは「物の本質は常に止まるところがない変化して行くもの」という無常観なので、情け容赦のない現実としての無常感として解するものではないのです。

 山がなぜ慕わしいのか。

 「潮干(しおひ)」の意味するところから、潮の満ち引きのない場所としての山だからということになります。

 「無い」処(ところ)としての身を処す空間・時間を「思・想」うからだろう。

 物々交換からはじまる数的な「0(ゼロ)」という概念は、有る無しを明確に分別します。

 インドにおける原始仏教では「無い」は虚虚無感の概念としてのネガティブに使われた。これは「有る」ということに対する「無」という一つの在り方で、「世の中は無だ」といえば虚無思想の概念になる。
 しかし中国仏教における「無常住」の「無」は、「有る」「無し」という価値観を超えての根元にある基本的概念である。そのように変容した理由は、中国には仏教を受け入れる以前から老荘思想というものがあり、そのなかに存在の基本としての「無」があった。老荘思想の最高の価値観は「無為自然」で、その人格を持つ人を真人(しんじん)という(中西進著『万葉秀歌選三』四季社・p108)。

 理解というものは変遷過程があり、弁証法的な止揚の過程でもあり身分制という身の置き処が、認識、理解というものに大きな影を落とします。

 世間無常は世間無情を・・・どうすることもできない処の体感があるからで、憧れようがどうすることもできない事態の継承があります。

 そこに世の乱れ、乱世の時代になると下剋上の身分破壊が始まり、大陸の春秋戦国の乱世に似たりの世界が広がります。儒教的な階層的な社会からの退避、インド仏教が老荘の思想をも含む理解の上に変遷過程を踏み本格的な思想としての根元性へと向かったとき、そこには「有る」「無し」を超越した世界観が生まれる。

「ある」という事態は、有(あ)る、在(あ)るであり生(あ)ることでもある。

 無我の境地はある反面、はからいの只中にあることの気づきでもあります。

 誰が事態を作るのか。

 誰たる主語のなき世界がそこに生まれます。

 社会を動かしているのは誰なのか。政治家なのか。国民なのか。

 国家に、社会に、アイデンティティがあるのか。

 「普通に自然界というものを、私というものに対する他と考えるけれども、本当は自然界と云うものは我々の自己と云うものをずっと拡げて行けば自然界を含むということが出来る。カントの考えのように経験界と云うものは純我の綜合統一によって成立と考えれば、我々の自己と云うものは自然界に対する立法者だと云うこともできる。・・・」(『語る西田哲学』書肆春水・p27)

 国家・社会が有機的に綜合統一的にあるものとするならばパーソンが現われる理解が先行するだろうし、実際に明治以降の教育で培われたカント道徳観は根深いものがあります。

 多数の人間はそれに従くことが正義であり、義務であるという認識が先行する。

 「憂う」

 事態を憂う根元的な主体が、我を超越し「ある」とするならば・・・。

 日本的なものの考え方の中には述語に主語を含み理解があります。

 先行する、はからいの世界がそこに現われてるという体感です。

 どうも世の中は徴兵制が始まり戦争が始まる気配が蔓延しています。

 日本人は平和主義者が多く戦争は絶対に行わない。

 貴方の向ける銃の前に立ち、無抵抗主義を貫く覚悟である。

 しかしこの「無」というものが曲者で、事態の現れの根元的に触れているのであろうか。

 いつの間にか歯車になっている事態。

 事態を憂う根元的な主体が、我を超越し「ある」とするならば・・・。

 何か言わんか。

 時々「平和の希望」が聞えるようですが、衆生の心には響かないようです。

 平和憲法は象徴という立場を説いていますが、衆生は悉くこれを形骸化し、戦争放棄条項も悉く形骸化していきます。

 「自然界に対する立法者」

という考え方の恐ろしさは払拭し難いものです。


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