わが生涯においてどのくらい書物を読むことが出来るだろうかと考えるときがあります。最近はどうも本の収集家ではないかと思う程に目の前に書物が並びます。
専門書なのか一般書なのかその区別なき我が選択に不思議を思います。残り少ない人生に何を求めているのか。
存在の不思議にその根柢があるのは確かで、日々起こるわが身への問いかけにその源が「ある」確かさの確認かも知れません。
『論理と歴史』(師茂樹著・ナカニシヤ出版)ということしの3月に出版された仏教関係の研究者の専門的な研究書で、空・有という空有論の歴史をその専門的な立場から東アジアをも含めた歴史を紐解きその形成と現代に問われている「共生」の構造へと論を展開するものです。
こう語ったところで内容を理解したのかと問われると全くの素人、理解の幅が天空を風に乗って旅する蜘蛛の糸のような幅のない軽量なもの(物・者)の舞です。
『自閉症の僕の七転び八起き』(東田直樹著・KADOKAWA)を早速読む、いきなり目が止まります。
「どこから来たのだろう」項の最後に、
複雑な感情をもっているから人なのです。
自分の意思だけではどうにもならない思いがあることを、本当は誰もが知っているはずです。(同書p13)
当たり前の話などと言うのではなく、あまりにも明確な語りに自分が納得し目が止まることに「問い」を感じるのです。
至極当然
空有論が宙に飛びます。
一方新潮選書から大塚柳太郎著『人はこうして増えてきた』が出版されています。副題は「20万年の変遷史」とあります。
移住・戦争・疫病・農耕・気象変動・定住・文明・産業革命・・・72億人・・・そして今年
との帯の言葉に、「ある」事の現在形を感じます。
東田さんの「自分の意思だけではどうにもならない思い。」という言葉が此岸の足下に響きます。
だからどうなのだという話ではありません。
四面楚歌で二進も三進もいかない状況などは決してない。
極まりない事態などというものがあるのだろうか。
安直な解はなぜ生まれるのか。
「事態」に対する「自体」が無い時には、既に「死に体」のように思う。
「問う事」以上に「問われる事」に意味への意志が必要な気がします。
「人は問われる存在であり、そのように期待されている存在でもある。」
空有論などというものも説くこと自体に既に意味があるように思います。