思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

愛すると云う事は自と他の矛盾の一致

2015年07月24日 | 哲学

数日前に、

 NNNドキュメント「“元少年A”へ ~神戸児童連続殺傷事件 手記はなぜ~」

という番組が放送されていました。
 
 太田出版から私の誕生日に近い6月の下旬に出版された『絶歌』という300頁ほどの本で、作者は“元少年A”で、神戸連続児童殺傷事件の犯人とのこと。本人が実際に書いたのか・・・ということも番組内で語られていましたが、「酒鬼薔薇聖斗事件 生命(いのち)の記」などと帯の背に書かれていると何とも言い難い世の中の成立に矛盾・矛盾の連続性を感じてしまいます。

 全体が違和感を持つのではなく、あくまでも部分と部分の対立で一方は「是」とし、片方は「否」が常にまとわりついて世の現れとなります。いわゆる反対の一致がそこに在るわけで、一致が即ち見せられている現実です。

 見せられると書くと当然・・・「誰に」・・・という主語性という思に駆り立てる私があることに気がつきます。

 綜合的な統一事態というものがあるのだろうか。

 知識を持って何事かを語る上において、さてさて我道を貫くのか・・・誰もが安心・安全を感じる中に綜合的な統一事態を見ることはできないのか。

 「我等が他と対立して、利害相容れない矛盾のところに一致の結合をする心情が愛である。」(『語る西田哲学』書肆心水・p36から)

 西田幾多郎先生のこの「愛」は、私には仏の声という顕現の中に見えるように思う。現実というものは対立の中にあることであるが、主語性を求めたくなる・・・綜合的な統一事態を求めたくなります。

 「我等が真に愛すると云う事は自と他の矛盾の一致である。」(同上)