(世界の名著ベンサム、J・S・ミル中央公論社から)
政治哲学のマイケル・サンデル教授の「ハーバード白熱教室」の第二回目が放送されました。
きょうは「命に価値をつけられるのか」という話で、
Lectureは、
1 ある企業のあやまち
2 高級な「喜び」 低級な「喜び」
でした。
Lecture1では、功利主義における費用便益分析に基づく「命の価値」は数値で表せるか、というに内容で、数値で測ることに功利主義への反論示されます。
Lecture2では、
示される功利主義への反論の内容「個人の権利が尊重されていない」「全ての価値と好みを集計することは可能か」が語られていきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
① 個人の権利が尊重されていない
でここでは、例として「拷問とテロニズムについて」次の話がされます。
3000人を殺すテロ情報を持っている容疑者が逮捕された。
しかし、さし迫った危機を回避することができる情報をもっていると信じているが、その容疑者からその情報を得ることができない。そこでこの容疑者に対し拷問にかけることは、正しいか否か?
君には個人の権利を尊重する道徳的義務があるからやってはいけないのか?
最大多数の最大幸福という功利主義の論理が問われるわけです。そして次の反論、
② 全ての価値と好みを集計することは可能か
※ ドルのような単一の基準で計れるのか
※ 高級な喜びと低級な喜びに違いはないのか
なぜ人々の好みを良い好みと悪い好みに分類せず全てを一律に計る必要があるのか。
が語られていきます。
私たちは高級な喜びと低級な喜びを区別すべきではないだろうか。
人間の好みに優劣をつけないということはある意味では魅力的なことであるといえる。なぜそういえるかというと、判断を必要としないし、平等主義的だからだ。
ベンサム派の功利主義者は誰の好みも重要だと言う。他の人が何を望むか、何をもって幸せと感じるかにかかわらず、全ての好みが集計されるべきであると。
ベンサムが重要視したのは、喜びや苦痛の種類ではなくその大きさと長さであった。ベンサムにとっていわゆる高級な喜びや崇高な美徳とは、より長く喜びをもたらすものであったの種類と長さであった。
教授は、ジェレミー・ベンサムの次の言葉を紹介します。
喜びの量が同じであればプッシュピンは、詩と同じように良い。
※ プッシュピンとは、ピンをはじく子どものゲームのこと。
教授の言葉は続きます。
この言葉には次のような主張が込められている。
私たちには他人の喜びを比較してどちらの方が価値がある、どちらの方が優れているなどと判断する権利はない。この優劣を拒む姿勢は魅力的だ。
本当にそれでよいのか、喜びの優劣を考慮しないでよいのか。
と教授は学生に投げ掛けます。そして古代ローマの話をしまします。
古代ローマでは、多くのローマ人の快楽のためにキリスト教徒の人権が侵害されていた。そしてベンサムの理論の別の問題も見えてきた。
より多くの人の幸福が何かを決めるためには、戦いを見物する古代ローマ人が享受していた邪悪で下劣な喜びにも評価しなければならないのだろうか。
ということだ。これがベンサムの功利主義に対する反論だ。
と教授は説明します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
講義は、次にこの功利主義の問題点に答えた人物J・S・ミルに移ります。
ここではミルが、ベンサムの功利主義に対する反論に答えているかを考えていきます。
サンデル教授は次のように語ります。
ミルは、功利主義を血の通ったものにしようとした。
ミルが試みたのは、個人の権利などの人道的な問題や、高級な喜びと低級な喜びを区別する必要性を考慮に入れた上で、功利主義の計算法を拡大し、修正できるかどうか確かめようとするものだった。
1859年には、有名な著書『自由論』を書き、個人の権利と少数派の権利を擁護することの重要性を説いた。1861年には、『功利主義論』を書いた。
ミルは、道徳性の高さは効用の大きさで決まると考えていた。つまりベンサムの前提を否定していたわけではない。その証拠に彼ははっきり述べている。
望ましいものとは、実際に人が望むものである。(J・S・ミル)
経験から生れる願望こそ、正しい道徳的判断の根拠であるという。しかし第2章の8ページでは、彼は功利主義者が高級な喜びと低級な喜びを区別することは可能だと論じている。
人々の願望や好みを除外して考えることはできない。なぜなら功利主義の前提を崩してしまうことになってしまうからだ。高級な喜びと低級な喜びを区別する方法は、両方を経験した人がそれを好むかどうかである。
2つの喜びのうち、両方を経験した者が、全員またはほぼ全員、道徳的義務感と関係なく、迷わず選ぶものがあれば、それがより好ましい喜びである。(J・S・ミル)
この方法で高級な喜びと低級な方法を区別できるか?
サンデル教授は生徒に挙手をさせます。すると圧倒的にできないとする生徒が多い。本来ならばその理由を問うところ、教授はここで実験をします。
3つの映像を見せるのです。シエクスピアのハムレットの独白、アメリカのテレビ番組「フィアー・ファクター」、そしてマンガ。
ハムレットの独白は、「(ハムレット)人間とは何たる傑作か、気高い理性、限りない能力、優美な姿、機敏な動き、天使のごとき行為、神のごとき理解力、正にこの世の美、生物の鑑(かがみ)だ。しかし私にとっては、無意味な塵の塊にすぎない。人間など面白くもない。」という台詞のシーン。
そして「フィアー・ファクター」という番組。この番組は、6人の挑戦者が危険を伴う挑戦、バンジ-ジャンプ、スタントなどに3つのステージで死闘を繰り広げるもの。
最後の3つめは有名な「ザ・シンプソンズ」という日常的な笑いの世界で、ほのぼのとした内容のマンガ。
で、教授はどれが好きかと学生に聞きます。するとシンプソンズが1番多く、ハムレットは若干、フィアー・ファクターは一人という状況で、教授は質問を別な角度から行います。
その質問は「どれが最高の崇高な経験、最高の喜びであったと思うか。」というものです。
すると、シエクスピアの方が価値があるとする学生が、シンプソンズよりも上回ります。
ここでシエクスピアを選んだ学生が生物化学のネズミの脳の刺激実験を例に示し答えます。
「強烈な喜びを得たいとは思うが、つかの間の強烈な快楽に溺れるネズミであるよりも、高級な喜びを享受する人間でありたいと考えると思います。」
これはなかなか共感を得る意見で、教授はこの意見に反対な者、優劣をつけられないと考える学生の意見を求めます。すると一人の学生が、
「人は良いものを選ぶ。それは相対的なもので客観的な定義は無いので、シンプソンズがより好まれる社会もあると思います。シンプソンズは誰でも理解ができますが、シエクスピアを理解するには教育が必要だと思います。」
と答えます。教授は、
ミルも高級な喜びを理解するには教育が必要だとしている。そして教育を受けると人は、低級なものよりも高級なものを好むようになるという。
と語り、有名な言葉を紹介します。
満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよい。
満足した愚者であるより、不満足なソクラテスであるほうがよい。
その愚者が、もし異を唱えたとしたとしてもそれは愚者が自分の側のことしか知らないからにすぎない。
私は、効用に基づかない正義の架空の基準を作り出すどのような見せかけの理論にも異議を唱える。
一方で効用に根ざした正義こそが全ての道徳性の主たる部分であり比類なくもっとも神聖で拘束力を持つものであると考える。
正義とはある程度の道徳的要請の名称であり、集合的にみれば社会的効用はほかの何よりも大きく、ほかの何よりも優先されるべき義務なのである。
教授は、
正義は神聖で最優先されるべきものであり、それよりも劣るものと簡単に交換できものではない。 しかしその理由は究極的には、功利主義の考えに基づいたものであるとミルが主張する。
私たちが考慮すべきなのは人類全体の進歩と長期的な利益である。もし私たちが正義を行い権利を尊重すれば社会全体が向上するだろう。
この考え方に説得力はあるだろうか。それともミルは、質の高い喜びや神聖で特に重要な個人の権利について論じることで、功利主義に枠の外に踏み出してしまったのであろうか。
ここではその問いに答えることはできない。権利と正義を論じるためには一旦功利主義から離れる。別の方法で権利とは何かを説明しそれらの考え方が成功しているか確かめなければならないからだ。
と講義は進み終了しました。
文才がないので表現力に問題がありますが、学生時代に戻りたい衝動にかられました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
諏訪大社の御柱祭下社山出しが歓喜のうちに終了しました。
御柱の木落しの「華乗り」は、「フィアー・ファクター」の挑戦者で、観客は今日の授業の学生のようです。
諏訪人は、木落しの「華乗り」に、この季節最大の高級な喜びと価値を認めます。
高級な「喜び」や低級な「喜び」は、仏教の立場から考えると問題外の論議になっていきますが、しかし現に目の前に事実として示されている現実があります。
実際、生きていくならば、何を学び、理解しどのように全うしていくか、個人の出方論にかかっています。
このブログは、ブログ村に参加しています。