思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

諏訪大社御柱祭の下社山出し2日目・華乗り

2010年04月11日 | 宗教

     (信毎19面「下社 興奮の木落し」から) 

  諏訪大社御柱祭の下社山出しの2日目がおわった。昨日10日は、「秋宮四」の柱を先頭に、諏訪郡下諏訪町大平の棚木場(たなこば)から5本の御柱の曳行(えいこう)と、午後1時半すぎ木落とし坂から「秋宮四」の木落としが行われた。

 NHKでは「天下の大祭!御柱祭 信州諏訪が熱く燃える上社下社の山出し一挙放送」と題し午後2時間ほど放送しました。

 2日目は、「諏訪郡下諏訪町の木落とし坂で2人が軽傷を負った。氏子の20代と40代の男性で、同本部と下諏訪消防署によると、木落とし中に腰などを打撲し、諏訪市内の病院に運ばれた。」ということで、昨日に続き死者は出ていないようです。

 地元紙(信濃毎日新聞)では、連日御柱祭の写真・記事でいっぱいです。

 [諏訪大社御柱祭の下社山出しで、御柱が目実斜度35度の急坂を一気に下る木落とし。先端に乗って注目を集める氏子は「華乗り(はなのり)」と呼ばれる。 坂の途中で柱から振り落とされることが多い。身内に心配もかける。それでも、勇壮な姿に場の興奮はいつも最高潮に達する。9・10日、大役を任された男たちは達成感と喜びを全身で表し、支えてくれた人への感謝を口にした。](記事)

 今朝の写真は、信毎から拝借しましたが、柱先頭に乗っている方が「華乗り」で、テレビの解説によると地元の少年野球の監督を10年余り努め、その努力が地元に認められこの華乗り先頭に鎮座することになったと言うことでした。
 
 [「やったー!」。10日午後、諏訪郡下諏訪町の木落とし坂。岡谷市の旧市内3区担当の「秋宮四」の華乗り、自営業○○○○さん(34)は、柱から落ちることなく坂を下りきると、両手を突き上げ、雄たけびを上げた。駆け寄る氏子たちと握手と万歳を繰り返し、「最高です」とほおを紅潮させた。](記事)

 写真は「春宮一」の柱ですので、少年野球の監督ではありませんが、秋宮のこの方は、次のように語っていたと言うことです。

[幼いころから木落としを見て「何てことをするんだ」と迫力に圧倒されつつ、大観衆を見下ろしながら滑り降りる格好良さにあこがれた。「諏訪人の血が騒ぐんです」。2004年の前回は先頭から2番目。今回は「どうしてもやらせてほしい」と立候補した](記事)

 その興奮の度合いがよくわかります。またこの華乗りに際しては、過去に経験した方がその指導に当ったということで、その指導者は次のように語っています。

[「気を付けろよ」との思いを込め、木札の「御柱御守」を渡した。無事に下った○○さんを、○○(指導者)さんは「本当に格好良かった」とたたえた。](記事)

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「生命の危機的状態を自ら故意に導くときめきは存在する」

「他者が危機的境遇にさらされ、正にその危機的状況に挑戦する瞬間を目撃するときめきは存在する」

この両者の存在が共鳴する共通共同現実場は、確かに存在する。

 その場は、善悪を論外にした何かの顕現であり、その場は時間の経過とともに、その何かは代わることなく同一のまま善悪の世界に引きもどす。

「生命の危機的状態を自ら故意に導くときめきは存在する」「他者が危機的境遇にさらされ、正にその危機的状況に挑戦する瞬間を目撃するときめきは存在する」における「ときめき」は、歓喜、感涙の動と静であるように思います。

 このような心理状態を共有できるもの達は、一つの文化圏を形成します。

 諏訪大社御柱祭は、そのような場を作り出しています。
 
 生命の尊厳にときめき、生命の危機感に敏感なもの達も、この時期諏訪に来ると一変するのではないでしょうか。

 生命の危機感に敏感なもの達の文化圏も同じ「何ものか」の顕現の世界であり、納得、妥協があれば異なる文化圏に身を移すことができてしまうように思います。

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 この写真は、7年前の下社の木落しです。この時は現場にいたのでその迫力は身を持って感じていましたが、今回はテレビ中継で観るだけとなりました。

 ブログにも書いていることですが、年々その迫力が納まるどころか下写真は、7年前の観客席ですが、木落し坂の雰囲気は興奮の迫力が増しているように思います。

     

 私に本当の現実らしい現実がないのかもしれません。

 人間は極度の危険に身をさらしても現実の何かを理解したいと願う。

と『退屈の小さな哲学』(ラース・スヴェンセン著集英社新書P125)書いていますが、一面そのように思います。さらに観客側もその危険遭遇の現場を観ることで何かの納得をしています。

 交通事故現場を通る時に、状況を覗き見る心理にも似ています。それをさせるものは何ものか、このときめきをもたらすものは何ものか?

 それは認識する自分を含めて、現実を作り出しているものだと思います。

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2 コメント

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Unknown (ネアンデルタール)
2010-04-11 17:21:28
死を「未来」のものではなく「今ここ」のものとして体感するところに「ときめき」がある……まあ、そんなようなことなのだろうと思います。
死を「未来」のものとして「今ここ」にまどろんでいるわれわれの制度的な意識がそこで崩壊させられる。崩壊させられることのエクスタシー。
死は、今ここの裂け目の向こうがわにある。「未来」に、ではない。
これが、「死んだら黄泉の国に行く」という原始神道の世界観・生命観であり、なんのかのといっていっても、われわれの意識の底にはそういう世界観・生命観の痕跡が残っているのだろうと思います。
それが神道である諏訪神社の祭りであるということは、なんとなくうなずけます。
仏教の祭りより神道のそれのほうが刹那的で、日本人は大いに盛り上がる。

内田樹先生の「日本辺境論」は、この国が仏教国であるという前提で考察されている。折口信夫の「まれびと論」だってそうで、そこが彼らの思考の限界です。
日本に仏教が入ってきたのは、それが国家宗教として採用された6世紀よりもおそらくずっと前のことで、古墳時代のはじまりのころにはすでにほかの文物と一緒に入ってきていたはずです。
それでも庶民は、鉄器などの具体的な生活にかかわるものには興味を示しても、「文字」にも「仏教」にも興味は示さなかった。
そして文字を受け入れたら、たちまちひらがなに変えてしまったし、仏教がようやく庶民のところまで届いてきた中世には、やっぱり庶民向けにアレンジされていった。
日本が実質的に仏教国になったのは、実際の仏教伝来から千年近くかかっているはずです。
いや、今でも実質的な仏教国といえるかどうかわからない。諏訪神社のあんな祭りで盛り上がる国民なんだもの。
日本が6世紀にまるごと仏教を受け入れそこで仏教国になっていたら、禅などの小乗系の仏教思想など広まらなかったはずです。そのとき中世の庶民は、仏教を受け入れるための産みの苦しみをしていた。だから、道元や親鸞や日蓮などの変革者が現われた。
日本列島が「辺境」であるゆえんは、ここが大陸の端っこであるという自覚ではなく、ここが世界のすべてだ、と思ってしまうところにある。すなわち、死は「未来」にではなく、「今ここ」にある、と思ってしまうところにある。
あなたたちは、内田氏の意見にもうなずけるところはある、とおっしゃいますが、僕は、ぜんぶだめだ、と思っています。
あんな下種な意見が現代のこの社会でのさばっていることが、この社会の弱く貧しい人々をどれほど生きにくくさせているか、たいていの人は僕のことを被害妄想だというけど、おまえらがわかっていないだけだよ、と言いたい部分もあります。
道元がさかんに「無常」を説いたことは、「黄泉の国」の世界観からはじまっているこの国の歴史の水脈に沿っているのであって、必ずしも大陸の禅をそのまま踏襲しているのではない、と思っています。
なぜ日本が、朝鮮半島がまるごと儒教を受け入れたような形では仏教も文字も受け入れなかったかというと、内田先生のいうような辺境意識などなく、「今ここ」で世界を完結させてしまわないと生きることも死んでゆくこともできない孤立した島国だったからだと思います。
そういう伝統を、あの先生は、なあんも考えていない。
あんな安っぽい言説を、現在の日本文化論のスタンダードにされてしまったら、僕は大いに困るし、無限に反論する用意がないわけではありません。
諏訪大社のあの祭りは、日本辺境論の底の浅さを証明している。
すみません、勝手な放言をしてしまって。
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然り。 (管理人)
2010-04-12 08:18:09
>ネアンデルタール様
コメントありがとうございます。
 昨日のハーバード白熱教室を見ていると御柱祭の命がけの木落しなどを見る行為は、崇高な経験、最高の喜びとしての価値はないというのが結論のようでした。

しかし、諏訪人はともかく、そのような番組が成立すること、実際には、命がけの行為をする側にその崇高な経験と最高の喜びの価値が成立していると思います。

これは内戦状態になったカンボジアに報道写真を撮りに行く行為に似ています。

 真実の姿の報道等が目的で、自己の命は二の次という利己的な判断があり、それは、また万人が望んでいるという自負心から行なわれているように思います。

 身体哲学的からみても利己的な生物らしい姿が見えます。利己的だから折り合いの倫理性が考え出されてくるのですが、どうも人間は他人(ひと)を道具と使うところがあります。

 ローマ人がキリスト教徒をライオンとともに檻に入れる。そこには道具の使用があり、折り合いの倫理性などはありませんから人権などの論議は成立しません。
 
 歓喜するローマ人の前でキリスト教徒は「折り合いの倫理性」を請(こ)います。そこに宗教性をみるとすることほど悲惨なことはありません。神が違うのです。
 
 ゲーデルの不完全性定理のいうように異なる場にある同士が折り合いが着くはずもありません。

ということで、怒るなネアンデルタール殿。

話は変わりますが、最近ブログ村の哲学ブログの「御坊哲のおもいつくまま」「人生の羅針盤」をブックマークして立ち寄っています。

 前者は哲学用語の私的解釈で説明するので、自分との符合するかで勉強になり、後者の「人生の羅針盤」は、とてつもなく利己的で「ときめき」ある主張に惚れました。気が向いたら立ち寄ってみてください。

なおコメント中に「禅を小乗」とかいてありますが「大乗」の打ち間違いと理解しています。
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