思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

頽落と心の磨草

2011年08月27日 | 哲学

[思考] ブログ村キーワード

 ある文章を読んでいたところ「頽落」ということばが出てきました。文章の流れから「人がどん底に突き落とされるような目に遇う」という意味ではなかろうかと思われるのですが、はっきりしないと落ち着かない性格ですので、サイト検索したところ、Yahoo知恵袋で

 たい‐らく【頽落】-日本国語大辞典
 〔名〕くずれ落ちること。

と説明されていました。さらにGoogle検索すると

唯物論者: 頽落
http://keio-jiro.blog.ocn.ne.jp/blog/cat11519427/

トンカ庵
http://kantkant.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/10-bc59.html
『存在と時間』を読む (10)頽落、逃亡、不安

などのサイトがあり、落ちる人間の哲学なのです。

『唯物論者』さんによると、

 頽落verfallenとは、人間的堕落のハイデガー的表現である。頽落という訳語は一般に馴染みの無い言葉なので、以下では堕落と表現する。ハイデガーにおいて堕落は、人間が自ら望む形で、人の形をした単なる物体に成り下がることを指す。そして人の形をした単なる物体とは、自由を放棄した人間、もしくは自由を放棄させられた人間を指す。なぜなら人間存在の本質は、自由だからである。・・・以下略


『トンカ庵』さんでは、

 日常的現存在の根本的様相、すなわち現存在がさしあたりたいていは配慮された「世界」にたずさわり融け込んでいること、世間話や好奇心や曖昧さによってみちびかれているかぎりでの相互存在のなかへ融け込んでいること、をハイデガーは頽落とよぶ。おのれ自身として存在しない(非本来性)というあり方がこのような日常的現存在の積極的可能性である。現存在は頽落するものとして、事実的な世界内存在としてのおのれ自身からいつもすでに脱落している。しかもどこに頽落しているかというと、それ自身現存在の存在にそなわっている世界に頽落しているのである。世間と配慮された「世界」とに融け込んでいる現存在のありさまは、本来的な自己としてのあることの存在可能としての自己自身から逃れる現存在の逃亡である。・・・以下略

以上他人サイトを参考にすることでこの「頽落」という言葉はハイデガーの言葉だと分かります。

 墜落と同じように解していいようで、「人はその場において常に落ちる存在である」これは仮想的で夢物語かも知れませんが、常にこのような冷たい風が我が身に吹き付けている、と考えて生きることも自分の日常における戒めになるように思いました。

 元漫才師でタレントの島田紳助氏の芸能界引退はには、この「頽落」がなぜか重なるのです。深イイ話などは好きな番組で多くのことを学ばせていただきました。

「存在者というものはさまざまに語られる。」これは『形而上学』(アリストテレス)の言葉です。

 存在者とは、自然に存在するものや制作されたものも含めて今現在現前にあるものと理解してもいいと思いますが、その存在者は可能態から現実態へ向かう運の内にあるというアリストテレスは言います。

 現実態になった存在者は、また可能態により更なる現実態へ向かう、まるで永遠回帰的な話です。

 目的論的運動と呼びますが最終目的は何か、それが「純粋形相」という話になるわけで、頽落の究極のテロス(目的)はどこにあるのでしょう。
 
 つまるところ「人間存在」という大きな問いが立ち現れ哲学が始まり、人間とのかかわりの中であらゆる学問が成り立ち、また思想や宗教があるのではないかと思います。

「頽落」といってもその目的性を考えると、現状の止揚がないわけではなく、それぞれの価値観の異なる善き生き方にも、また集団の普遍的な価値観における善き生き方にもなるわけで、善悪の価値観で「頽落」を考えると「みじめさ」や「ありがたさ」が立ち現れる機会でもあると思います。

 頽落を生かすも殺すも現状認識、いかに人間存在を考えるかで 「心の磨種(とぎぐさ)」になりそうです。

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