思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

100de名著ニーチェ『ツァラトゥストラ』1-(3)・超人・意志の否定

2011年04月10日 | 哲学

 今朝は、100de名著ニーチェ『ツァラトゥストラ』・1-(3)と「”神の死 ”から”超人 ”へ」を3つに分けました。特に理由はなくNHK連続テレビ小説”おひさま ”がきになったからです。

 まずニーチェを語る前にニーチェのこのブログに対してコメントをいただき、その中に鋭いコメント内容があり少々苦悩したのでそのことから書きたいと思います。

 番組批判ではありませんが、自己流の意見も描き加えたいと思います。

> 「ツァラトゥストラ」は山にこもり、悟りを開く。。 それを民衆に説こうとする感覚は実は理解不能であるかもしれません。<  
 
 というコメントをいただき、衝撃を受けました。そのような意味ではないと思いますが「なぜ人は語るのか」もとを正せば「神は何故に語るのか」という疑問を思ったのです。

 言葉は、コミュニケーションの為にと簡単に言い切れそうだが、

 「私たちはときには、自分の気持は(本当のところは)人には伝えられない、あるいは、人の気持は自分には(本当のところは)わからない、とおもうことがある・・・・」(『言語哲学入門 』服部裕幸著 勁草書房p156)

であり、果たしでどうなのか、「言葉を語る」の言葉から、「語る」というその意欲に視点を置くとそこにはいったい何があるのか、「理解不能であるかもしれません。」というコメントが的を得ているように思う。

 「語り」いつから始まるのだろうか。

 旧約聖書の神は、神は「光あれ」と言われ、創造の7日間に天地創造の言葉を言われた(創世記)。

 無名の預言者は「さきによげんせられるところはや成れり、われまた新しきことを告げん」(イザヤ書42-9)と語る。

 イエスは断食の後、心なきもの(悪魔)に対し「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る総てのことあによって生きる」旨を語る(マテオ4-4)。

 このように神は言われ、預言者は告げ、イエスは語る。それではわれらがお釈迦様はどうか、多くのお釈迦さも生涯は語られていますが、佛教大学教授の田中紀彦先生は「説法の生涯」の冒頭で次のように語っています。

<引用>

 六年の苦行を終え、菩提樹の下で静かに瞑想し、ついに悟りを開いて仏陀となった。釈迦三十五歳のことであったとされている。悟りを開いた後、釈迦は一週間ずつ七ヶ所で瞑想をくり返し、悟りの境地を味わい、悦しんだといわれている。これを法悦(ほうえつ)という。

この間に、バラモン教において最高神とされていたブラフマー(梵天・ぼんてん)が釈迦の眼前に現われて、「釈迦よ、あなたの悟りは素晴らしいことであり、全く正しいものである。ぜひ人々のために説法するべきである」と三回勧めたとされている。

これが「梵天勧請(ぼんてんかんじょう)」の伝説である。それでも釈迦の心中には「悟りの内容を人々に説いても、おそらく理解してもらえないであろう。それにしても、悟りを言葉で表わすことは無理である」との思いがあった。しかし、言葉で説く以外には、より優れた方法はない。ついに意を決して説法することとなった。

<以上同書p14~p15から>

という有名な梵天勧請の話ですが、時代は下り達磨大師は、語らずして語る、ことになります。

 語りの中に、我々は何かを求め、それを聞き、それを信じることになります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 何のために、世の人々を救うために、どうして救わなければならないのか、救うということは何か?

 意を決して説法することになるのですが、この「何のために語るのか」「何のために語られるのか」素朴な質問でありながら思考の深みに吸い込まれます。

 「救済」とするならばその救済は、何からの救済であるのか・・と。

 宗教学者波多野精一先生は、「宗教問題の諸問題」で次の言葉で救済の概念について語っています。

<引用>

 ・・・・・・救済は、この世の不完全、価値に対する冷淡ないし反対、もしくは不快、苦痛より初めて、不幸、災難、さらに道徳的悪にいたるまで、一切の反対価値を前提とする。即ち広義における悪の存在は救済の予想である。ここに宗教哲学にとって、極めて困難な問題が起こらずを得ない。・・・・・・略・・・・・・けだし絶対的価値そのものである以上、如何にして、また何故に、悪は存在するかと問うことは、宗教哲学の避け難いところであろう。・・・・・この世の苦痛、危害、災難のあるのは何によってであるか。如何にして人生における幸不幸の差、運不運の別を生ずるのであるか。人は斯くのごとく疑った。そして彼らはその解釈を賞罰の観念に結び付けたのである。・・・・略
 
<以上波多野精一全集第三巻p233>

 人にとっての悪、そして人が感じてしまう賞罰、人によって語られる賞罰を宗教哲学の問題として語ることは、今朝のニーチェの「ツァラトゥストラ」の番組内容から逸脱するのでこのくらいとします。

  宗教は人によって語られる、過ち多き人によって。

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 理由はともあれ、ツァラトゥストラは、末人たる群衆に「超人」を語ることを思い立つ。

番組ではここで「超人」について語られます。

【ナレーター】
 超人になるにどうすればよいのか?

 ツァラトゥストラはこう語りかけます。

【ツァラトゥストラ】
 私は君たちに精神の三つの変化を告げよう。

 すなわち精神がラクダになり、ラクダが獅子になり、最後に獅子が幼子(おさなご)になる有様を。

 

 ラクダ
 重い荷物をを担(にな)う。自ら求めて担う。いろんな義務も引き受けてゆき、引き受けることで力を貯める時期。

 獅子
 ちょうど青年期のように、既成の事柄に全部逆らう否定の姿。これが正しいんだよ、こうするもんだよということに、逆らう否定の姿、否定に力を振るう時期。
(ライオンのように歯向かう)

 歯向かうだけでは超人になれない。それで次の段階が、

 幼子
 幼子は夢中になって遊ぶ。何も考えずに砂遊びをしたり、全く無垢に全力で向かって行く姿。正にその姿が超人。

【西研】
 子どもに戻れということではなく、大人で理性もあり解っているのだが、自分の面白いことワクワクすることに全力で向かって行けということです。

 ニーチェは、幼子のように無垢なまま、でも気力をみなぎらせながら生きる、そのためには「永遠回帰」の思想を受け入れなければならない、といっているのです。

『ツァラトゥストラ』の中で一番言いたかった思想は、この永遠回帰だと思います。

・・・・・・・・・

 このように西研先生は、ニーチェが『ツァラトゥストラ』の中で一番言いたかった思想、それは「永遠回帰」だとします。

 次回3回目はこの「永遠回帰」が語られます。

 さてここまできてかの有名な「力への意志」という有名な言葉がないことに気がつきます。私自身は精神の第三段階の変化において幼子までの段階は理解できるのですが、段階を踏み出す意志はどのような状態なのかということがきにかかります。修業を積んで積極的な果敢な精神を持つこと、西研先生のこれまでの解説だとそのように理解してしまいます。

 実際はどうなのか、感得における状態とはおのずからの意志までに高められているように思います。志向性の視点さえ無くも理に適う行為、己のあるべき幼子までに高められた精神とは、そこには自由意志さえないおのずからの世界が感じられるように思います。

 ここで哲学者永井均先生の「ニーチェ論」を参考にしたいと思います。西研先生の主張を否定するものではありません。私自身の問題提起として永井先生のニーチェの読み解きが非常に参考になるからです。

 永井先生の著書『これがニーチェだ』(講談社現代新書)を参考にします。永井先生は西先生の段階論を空間論で説明しています。すなわちパースペクティヴな視点から読み解きます。

 ニーチェの著書『善悪の彼岸』に書かれている「現実の世界において問題なのは強い意志と弱い意志ということだけである」という言葉、また、1887年の秋に書かれた論文から「私は意思の力をどれほどの抵抗・苦しみ・責め苦に耐えて、それらを自分に有利なものに転換することができるかによって評価する」という言葉、1888年春に書かれた論文から「意志が弱い、ということは人を誤らせがちな一つの比喩にすぎない。なぜなr、意志というものは存在せず、したがって強い意志も弱い意志もないからである。衝動が多様で分散しており、それらの体系が欠如しているとき、それが結果的に『弱い意志』となってあらわれ、単一の衝動に支配のもとで、それらが調和しているとき、それが結果的に『強い意志』となってあらわれる」を紹介し、

 「意志に強弱を問題にすることそれ自体が否定されている。」

と述べています(同書p184~p185参考)。

 ここでいう意志は何にもとらわれない自由意志の存在です。永井先生は、

 「どんな自由意志も、どんな強い意志も、意志(der wille)は、結局は湧き起こってくる意欲(das wollen)にすぎない。」(上記書p185)

と述べ、続いて、

 「それを起すものではなく起こることなのである。いや、起こすこと自体もまた、それ自体として見れば、起こすという現象が起こることにすぎないとも言えよう。このようにして、起こすことと起こることの区別は自体がもはや維持されなくなったとき、第三空間が始まるのである。」(同上)

 この第三空間とは西先生の第三段階幼子のことですが、この第三空間とはどういうものかがよく解ると思います。

 ニーチェに仏教の読み解きはやや表面的ですが、ある面非常に近いものがあると言われるのはそこにあります。

 語るとどういうことか、己の救いが万人の救いになるのか、お釈迦様の困窮はそこにあるのかもしれません。「理解できないかもしれない」そのように悩まれたのもそこにあるのかもしれません。

 次回は「永劫回帰」。テキスト理解と番組を見ることで多くのことを教えてくれます。また他の哲学者のニーチェ論を読むことで理解もまた自分のものにすることができるように思います。

 時々言及しますが「永劫回帰」は仏教の「輪廻転生」に重なるように思いますが、果たしてそうなのか、仏教の輪廻転生をどのように理解するか個人の視点の置き所を示してくれるものと思います。

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