思考の部屋

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他者危害の原則

2010年04月12日 | 哲学

 「他者危害の原則」という言葉があります。加藤尚武先生に次のように説明しています。(『応用倫理学の進め』丸善ライブラリー)

他者危害の原則は、自由主義の基本原則である。要するに、大人が自分勝手なことをするのは、黙って放っておくべきだという考え方である。酒、たばこ、マージャン、危険なスポーツなど、理性的に考えれば悪いに決まっている。「たばこを止めるのは、お前の身のためだ」という理由で、禁煙を強制してよいとすると、政府による個人生活への干渉の限度がなくなってしまう。(P6)

 他者危害の原則の背後には、長い目で見ると自由と理性は一致するという合理主義の主張と、長い目で見れば自由と理性は一致しないという非合理主義の主張が共存している。だからこそ、他者危害の原則という形で、自由主義の原則を個人相互に確認し合うということが、その自由主義を社会に定着させる上で大きな役目を果たす。(P14)

わかり易い説明だと思います。

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 この言葉は、J・S・ミルの名著『自由論』から導き出される言葉なのだそうです。そこで読んでみると次のことが書かれています。

 この論文の目的は、用いられる手段が、法的刑罰という形の物理的力であれ、世論という道徳的強制であれ、強制と統制という形での個人に対する社会の取り扱いを絶対的に支配する資格のある、一つの非常に単純な原理を主張することである。
 
 その原理とは、人類が、個人的にまたは集団的に、だれかの行動の自由に正当に干渉しうる唯一の目的は、自己防衛だということである。すなわち、文明社会の成員に対し、彼の意志に反して、正当に権力を行使しうる唯一の目的は、他人にたいする危害の防止である。彼自身の幸福は、物質的なものであれ道徳的なものであれ、十分な正当化となるものではない。
 
 そうするほうが彼のためによいだろうとか、彼をもっとしあわせにするだろうかとか、他の人々の意見によれば、そうすることが賢明であり正しくさえあるからといって、彼になんらかの行動や抑制を強制することは、正当ではありえない。
 
 これらは彼をいさめたり、彼と議論して納得させたり、彼を説得したり、彼に嘆願したりする十分な理由にはなるが、彼に強制したり、そうしない場合に彼になんらかの罰を加えたりする理由にはならない。それが正当とされるためには、彼の思いとどまることが望まれる行為が、だれか他の人に対して害を生みだすことが予測されていなければならない。
 
 人間の行為の中で、社会にしたがわなければならない部分は、他人に関係する部分だげである。自分自身にだけ関係する行為においては、彼の独立は、当然、絶対的である。彼自身に対しては、彼自身の身体と精神に対しては、個人は主権者である。たぶん、いうまでもないことだが、この理論は、成熟した諸能力をもつ人間に対してだげ適用されるものである。
 
 われわれは子供たちや、法が定める男女の成人年齢以下の若い人々を問題にしているのではない。まだ他人の保護を必要とする状態にある者たちは、外からの危害と同様、彼ら自身の行為からも保護されなげれぽならない。同じ理由から、われわれは、民族自身がまだ未成年期にあると考えられるおくれた状態にある杜会は、考慮外においてよいだろう。
 
 みずからの力で進化する途上におげる初期の困難は、非常に大きなものであって、それに打ち勝つための手段には、ほとんど選択の余地がない。そして改善の気迫に富んだ支配者は、おそらくそれ以外の方法では実現できないある目的を達成できるような手段なら、どんなものを用いてもよいのである。
 
 専制政治は、その目的が彼らの向上にあり、そしてその手段が、その目的を実際に達成することによって正当化されるかぎり、未開人を扱う正しい支配形態である。一つの原理体系としての自由は、人類が自由で平等な討論によって進歩しうるようになる時代以前の社会状態に対しては、適用されない。

以上『世界の名著第38巻』(「自由論」P224~P225)

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 諏訪大社御柱祭の下社山出しは11日、3日間の日程が終了しました諏訪地方観光連盟の御柱祭情報センターによると、「11日の人出は前回より2万1千人多い22万6千人。3日間の合計は同1万3千人多い53万6千人で、過去最高となった。」と予想どうりの状況でした。今日は休刊日ですので昨日の様子は、ニュース等でその状況を知りました。

 昨日はケガにんが6人で、骨折と脱臼ということで3日間を通じて死者はありませんでした。

 迫力は7年ごとに増し、次回はきっともっと過激になるような気がします。する者、観る者、全員が人生の物足りなさを打破しようとしているように見えルというと大げさでしょうか。

 傾斜角35度の斜面を滑り落す柱の「華乗り」、いいですね。覚悟を決めやるしかない。男を上げるしかない。

 今年はどの柱も綺麗に落ちました。途中で止まっても直ぐに滑り始めどれも優劣つけがたい状況でした。

 「危険だからこんな行事を禁止にすればいい」などという者は、いません。

 警察が規制を強化すれば、カンボジア状態になりかねません。それほど諏訪人は熱いのです。

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 カンボジアといえば報道カメラマンが、射殺される事態になりました。内乱状態のカンボジア、そこで繰り広げられる民衆同士の衝突、警察と民衆と何がなんだかわけのわからない状態。

 投石、ゴム弾発砲、火炎瓶、放水、そして実弾発砲。治安の悪さと危険性は承知の上での取材活動。繰り広げられる人権侵害、その真実の姿を取材して知らせるという崇高な使命感が命の危険という恐怖感に打ち勝つ。

 報道の自由、取材の自由は国民の知る権利と密接な関係を有する。

 取材の自由は、他人の権利を侵害しない程度で許されるのですが、この自由は個人的に取材する権利の自由と解しているようで、他人は論外になっています。

 本来自由主義社会においては、ミルがいうように「他人の権利・自由」を侵すものでないのが前提なのですがそれは守られていません。そしてこの「他者危害の原則」も話に出てきません。これがでてくると今の状態だと取材規制が法制化されても当然の状況にあるからです。

 カンボジアでの取材活動は、他人の権利を侵害するものではありません。これが個人に危害が発生するようなものになると国家は介入してきます。

 警官隊が市民を叩く、市民に向けて発砲する姿は、真実の報道上見逃せません。近付こうとするとどこからともなく銃弾が飛んでくる。

 「他者危害の原則」本当は大きな声で叫びたいのですが、そうもいかないところに不思議があります。

 御柱祭も不思議ですが、危険地帯での取材活動も不思議な行為です。

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「人間の行為の中で、社会にしたがわなければならない部分は、他人に関係する部分だげである。自分自身にだけ関係する行為においては、彼の独立は、当然、絶対的である。彼自身に対しては、彼自身の身体と精神に対しては、個人は主権者である。たぶん、いうまでもないことだが、この理論は、成熟した諸能力をもつ人間に対してだげ適用されるものである。」

ミルのこの言葉。「成熟した諸能力を持つ人間に対してだけ」、人間は日々学ばなければいけません。

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