時々日本書紀の一般に神代といわれる巻きに、「草木咸能言語(くさきことごとくよくものいう)」と書かれている部分について言及しています。
古代の人々は草木がものを言うことを自然のこととしていたようだ、という話です。このように古典の世界に広がる表現を見た時、生命科学が発達した現在、植生物(ぶつ)が遺伝子レベルな多くのことを語りかけている事実に通じるところがあります。
多くのことを語りかけている草木たち。
私の志向は草木に向けられ、「もの言う」を内に表現しています。
そこに「こと」の理解が現われてきます。
ものごと(物事)を知る世界とはこういうことを言うのではないかと思うのです。
「生々たる色と形をそなえた草木」を前に単純なる物(ぶつ)に出遭っているのではなく、草木を情意のより成り立った「もの」として接しているということです。
精神現象は内に、物体現象は外に置くことを当然のように思ってしまう二元論の世界ではこのような思考の世界はありえないかと思います。
太鼓の皮の振動が私たちの感動を引き起こし、弦楽器の弦の響きが感動を引き起こします。
リアルな実在と言葉の反復表現になってしまいますが実在とは、西田哲学ならば「真実在は主観客観の分離しないものである、実際の自然は単に客観的一方という如き抽象的概念ではなく、主客を具したる意識の具体的事実である。」と語るところです。
最近哲学者で西田哲学の研究者でもある藤田正勝先生の西田哲学における「純粋経験」についての講義を聞く機会があり、あらためてその著『西田幾多郎の思索の世界』(岩波書店)を読み返すと、「草木咸能言語」が古代日本人の精神の世界を現わす痕跡の重大性に気がつきました。
草木はどう見ても「ものを言う」ことはないのですが、そうではなく「ものを言う」に落ち着かせるところに古代人の純粋な経験があったわけです。
「もの言う」とは言葉を発するということです。
言葉は<もの>を言い表しつつ、しかし同時にそのなかに<こと>を住まわせていると言うことができる。しかも無限な<こと>を。言葉が聞かれるとき、この限りない<こと>が聞き手のうちに喚起されるのである。逆に言えば、聞き手は言葉越しに<こと>を聞く。言葉を踏み越えて<こと>の世界に参入するということもできる(上記書p39)。
十七音の句の世界について藤田先生は語っている言葉なのですが、ひとが何ごとかが解かるという世界はとてつもなく深い話に思えます。
物事がわかる世界とはどういう「こと」なのか、が「草木咸能言語」が語っているように思ったわけです。