思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

人間の性(さが)を思考する・吉備津の釜

2011年02月11日 | 風景

  元妻の嫉妬からの麻木久仁子さんの不倫騒動も既に古い話になり、巷では独身女性アナウンサー、記者と妻子ある男性との不倫の話があるようです。ここでは相手男性の妻のコメントがないので、その心境を知ることはできませんが怒りは頂点に達しているのではと外野席から察しています。

 まったくの他人事ですので、そのようなことにまったくと言っていいほど縁がない私が今朝はこの問題に取り組もうと思います。

 幻想の宇宙という言葉で『雨月物語』を紹介したときに、男と女の不倫にまつわる女の怨霊話があります。

 『雨月物語』の第8章話「吉備津の釜」は、愛人を作った男が妻の亡霊にとり殺される物語です。

<簡略内容>

 吉備(きび)の庭妹(にせ)に住む富農の井沢庄太夫は、祖父の代まで赤松氏に仕える武士であった。その放蕩息子正太郎は、吉備津神社の神主香央(かんざねかさだ)氏の娘磯良(いそら)と結婚することになる。

 神社に伝わる釜占いでは結婚は凶と出たが、婚儀はそのままとり行なわれる。
 嫁いだ磯良は夫やその父母によく仕える。しかしやがて正太郎は、鞆(とも)の津の遊女袖(そで)と馴染みになる。父は正太郎を家に閉じ込めるが、正太郎は磯良を騙して旅費までととのえさせ、袖と駆け落ちしてしまう。

 裏切られた磯良は、恨み嘆きつつ病死する。
 駆け落ちの後、二人は袖の従兄弟の彦六がいる荒井の里に立ち寄り、彦六の家の隣りに落ち着くことになる。だがここで、袖は物怪(もののけ)に憑(つ)かれたようになり病死。

 正太郎は悲嘆にくれ、厚く袖を弔う。袖の墓に日参するうちに正太郎は若い女と知り合い、その女主人を訪ねることになるが、それは自分が置き去りにしてきた磯良だった。彦六の勧めで陰陽師(おんようじ)に見てもらい、磯良の怨霊がとり憑いていることを聞かされ、四十二日間の物忌みを命じられる。

 その夜から磯良の怨霊は正太郎のいる家のまわりを飛びめぐり、正太郎は連夜の恐怖を味わう。四十二日後、長い物忌みが明けたと思い外へ出た途端、正太郎は殺される。夜はいまだ明けていなかったのである。正太郎の死骸はどこにもなく、後には壁の血と髻(もとどり)のみが残った。

<以上引用NHK文化セミナーテキスト『雨月物語 下』長島弘明著 p40>

 雨月物語の解説書をいろいろと読んでみましたがこれほど端的に現代文で表し得ているものはないと思い引用させていただきました。

 それもそのはず、著者の長島弘明(ながしま・ひろあき)先生は、1954年1月生まれ、

 近世日本文学研究者、東京大学教授。博士(文学)(東京大学、2000年)(学位論文「秋成研究」)。

とフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に書かれており、上田秋成研究家です。国文学第40巻7号に〈男と女の「性(さが)〉小論が掲載されていているほどに、男女間のこの問題について深い読み取りをしています。

 今朝はこの物語について解説をしようと思っているわけではありません。この「性」に関して使われている言葉に、まず注目します。

 「性」は、「せい」ではなく「さが」と読む。

ドキッとするほど、振りほどけない運命的な肉欲、肉の歴史を見るようです。

 されどおのがまゝ?(たわけ)たる性(さが)はいかにせん。
 
 疑問符の?に入る文字は、

という文字です。見るからに意味ある漢字に見えます。

 この「吉備津の釜」の冒頭に、

 女の慳(かだましき)性を募らせしめて、其の身の憂いをもとむるにぞありける。

と「慳(かだましき)」というほとんど見ることもない文字があります。

ここで長島先生の解説を紹介しましょう。

<引用>

 『雨月物語』が、人間の本源的・普遍的な「性」を目指し、現実の階層や職種の別を基準とした分類を無化しようとしているといっても、そこには自ずとある限界がある。
 
それは、男といい女という階層・範疇の別である。男・女という区別が、近世期において、もっとも強力な線引であり、無化することの困難な分類であったことは、言うまでもない。

幕藩体制の精神的支柱であった儒学においても、また体制の倫理を補完した仏教にあっても、男女の区別は、自明の前提である。『雨月物語』に、「女の性」「丈夫心」という用例はあっても、「人の性」「人間の性」という語がないのは、偶然ではない。

もっとも普遍化された形であっても、それは男の「性」であり、女の「性」である他はなかった。そして、両者の間には、現実社会の線引を反映して、厳然とした区別がある。

「吉備津の釜」や「青頭巾」(※雨月物語の他の作品)で、女の「性」は「慳しき」ものとされる。「かだまし(かたまし)」とは、心が素直でなく事実を偽る、あるいは既婚の女が他の男と通じることを意味する動詞の「かだむ」から派生した語で、心がねじ曲っている様をいう。

『日本書紀』の古訓や『類聚名義抄』では、「?(※上記たわけの文字)」「姦」「妄」「驕」「侫」などを「かたまし」と読ませる。「白峯(※雨月物語の他の作品)」に「義朝が姦しき計策(たばかり)」、「貧福論(※雨月物語の他の作品)」に富るものはかならず慳し」とあり、必ずしも女性評専用のことばではないが、「吉備津の釜」と「青頭巾」に、二度までも「女の慳しき性」「女の性の慳しき」というように、女性の本質を、このことばではっきりと指していることは重要である。

一方、『雨月物語』で「かだまし」に当てられている漢字の「慳」は、もの惜しみすること、あるいは片意地なことをいう。また「姦」は、よこしまな様、みだらな様を表わす。因みに、「?(※上記たわけの文字)」は「姦」の同字。また、「姦」は、「婬」(みだら)、「奸」(姦淫の罪を犯すこと、あるいはみだらなこと)に通じる。邪険でねじ曲ったひがみ心が、女の「慳しき性」ということになる。

 「吉備津の釜」の妬婦論に即して言えば、この「慳しき性」がつのったところに、恐ろしい嫉妬が生じ、磯良は「鬼」に身を変じたということになろうか。「音頭巾」では、快庵禅師が「人活(ひといき)ながら鬼に化(け)するもあり」といい、蛇や夜叉や蛾、そして鬼になった若い女の例を挙げた後に、「されどこれらは皆女子にて、男たるものゝかゝるためしを聞ず。凡女の性の慳しきには、さる浅ましき鬼にも化するなり」ということばが続く。男にはない、自らの身を異形の鬼に変えてしまう「鬼」性---異類性こそが、女に普遍的に潜在する「慳しき性」であるということであろう。「慳しき性」を持った女は、男とは別の、否---人間とは別の何者かである。

<以上上記国文学p71~p72>

とても分かりやすい解説で、知らないよりは知っていたほうがということで引用しました。

文中の妬婦論(とふろん)とは、この吉備津の釜の冒頭の「慳しき」が含まれている文章で、現代語訳にですと、

 [現代語訳]

 「手に負えない嫉妬深い女も、年をとって振り返ってみれば、その功績がわかる」と いうが、ああ、こんな愚かなことを誰が言ったものか。その嫉妬の害がひどくないものでも、家業を妨げ、物を損じ、隣り近所の悪口をまぬかれがたく、害の大きなものにいたっては、家を失い、団を滅ぼして、天下の笑いぐさとなる。昔から、この嫉妬深い女の毒に当たった人は、数限りをしらない。

嫉妬のために死後大蛇となったり、たぐいあるいは雷を起こして嫉妬の怨みを報いる類の女は、その肉を刻み塩漬けにしても飽き足りない。しかし、それほどのひどい例は稀である。男が自分の身持ちをしっかりとして、よく妻を教え導くならば、この嫉妬の害は自然と避けることができるものなのに、ちょっとした浮気から、女のねじけた本性を募らせて、我が身に災いを招くことになるのである。

「木にいる鳥を制するのは、気合いである。妻を制するのは大の雄々しさである」ということばは、まことにその通りである。

<以上NHK文化セミナーテキスト『雨月物語下』p41~p42長島弘明訳>>

 上田秋成という人は女性蔑視も甚だしいで憤慨する人もそれでよろしいかもしれませんが、すべてが「性」にあることに気づくべきかもしれません。この文字の左は立心偏、左は、というと「生(なま)」で生身です。生の肉から何が起るというのでしょう。

 皮膚で覆われた、いうなれば皮膚という器に肉が装てんされ、「性」が生ずる。「からだ」とはよく言ったもので「空(からっぽ)」に「み(身・実)」というものが詰まって生き物となる。植物の世界もまったく同じです。

 自然というものは不思議ですが、繰り返しの言葉で恐縮ですが、成るべくして成っており、成るべくして成っている、の実感です。

 したがって性とは身体の歴史であり、肉の歴史でもあるわけです。肉の歴史とはとても衝撃的なインパクトのある言葉ですが、私の発明ではありません。

 メルロ=ポンティという哲学者が自己と他者の言及において思考する中で身体性に注目し晩年は「<肉>の可逆性」という言葉を使用するに至ります。私は専門家ではありませんが、ここで歌われる肉は上記の肉に近いものと考えています。文頭の方でも肉の歴史と簡単に記載しましたが、遺伝子で生成される生身は、それ自体は連綿とした歴史の中の一つです。歴史の意味はすでにそれぞれに考えうる共通の認識範囲のことかと思います。

「遺伝子」の「遺伝」は歴史です。これは各自の特質的な遺伝子について言及しようとするのではなく、単に歴史という言葉を用いるために説明しているだけです。

自己言及を垣間見ようと入り込むと

空っぽの器内に、肉が装てんされ肉欲化する。秘められたものは何か、それは生成のされた「み(肉)」に刻まれた歴史(遺伝子の奥深いという意味で)なのかも知れません。


 今朝はわけのわからないことを考え述べているのですが、メモ的に書き綴りしたいだけです。

ここで話題を変えます。

 哲学ゾンビについて過去に何度か話題にしたことがあります。人間ではないが、限りなく人間に近いもの。

 最近は幻想の宇宙を彷徨う人間の姿に、視点をおき思考を進めています。

 限りなく人間の声に近い音声合成が進んだ今日、受け身の側である人間は何をもって贋(にせ)とし何にをもって真正とするのか、書かれた文章からでもその貴いお人柄を感得できることもあり、軽蔑の眼差しをもつこともあることはすでにブログ記事で書いているところです。

 姿なきものを有るように装う技術を人はもっています。装ったものを知る者は、それをひとは妄想といい幻想といいいます。

 雨月物語で示されているように「性」の間中・真中(まなか)にいるもの、肉欲の性と眩惑の性に陥っている者にとっては、真剣勝負のまなかの経験です。

 しかし当事者が第三者が呼ぶ妄想、幻覚に遊ぶ者にとっては、あくまでも真正なるものであり、その者の身体の衝動、肉の歴史の業(わざ)の中にあるのです。

 真は真を証明することはできない。自己言及のパラドックスをここにみるようです。自分お語る真が真でないことがよく解ります。

 あくまでも贋との対比の中でその存在があるのであって、真(しん)のみがあるときには、その真(まこと)を知ることはできません。なにがあるかというとあるがままということになってしまいます。

 思うに昨日の

 「肩のまよい」・「空っぽ」という一陣の風

のカリール・ギブラン(ハリール・ジブラーンという人と同じ人)の<歓びと悲しみ>の詩が語る無分別智に通じるのです。

 実際には真は贋とともに概念の内に重なっている。真たる一元論が存在しないように、一元論でも二元論でも、多元論でもない。

 幸せと思われるものをつかんだ時、人は次の幸せを求める。

 とめどなき永遠の彼方に幸せを追いやっているのかもしれません。

 だから満足、その場に満足、刹那に満足、満足とは今の今を見ることにあるということをいうのだと思います。

 性善説もそこに善きがあるのではなく、善し悪しの重なりの、存在としてではなく、成りませる成りがそのままに、だと思います。

 誰かが「常識」と語るとき、その常識は語り手にその真が想定されているのですが、他者があっての真の証明であることがわかります。最大公約数的に共有される真があるとしてそれを認める人々は、一つの有機体を構成し、組織体としての行動をもつことができます。

 自己言及とは当然その組織体にも生ずる問題で、「真を真であると証明することはできない」ことがわかり絶対普遍的を組織外者に言及することはできません。

 成るべくして成っており、成るべくして成っている。

 一陣の風に、これを感じる機会は常に現前にあります。

 「お前それは常識だろう!」との一言に落ち込むことはありません。世の中にはいろんな人がいます。絶対矛盾的自己同一をそんな一陣の風にみると、理解の一片に触れたように思います。

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