思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

無常・永遠回帰・人類よ、おごることなかれ!

2011年03月28日 | 宗教

 原発は中々安堵するような落ち着きの中に状態にはならないようである。原発について諸外国では、日本の事態をみて、国民に不安が広がり、今後の建設に反対するとも出ているようである。

 他山の石にするにはあまりにも悲惨な例である。起きる確率がほとんどゼロと判断したところに、人類のおごりがあった、ということになるとおもう。

 二度と同じことを繰り返さないということは当然のことだが、早期に危険性ゼロの状態になってもらいたいのだが、半減期という言葉に自然の時間と人の時間の大いなる相異を感じる。

 人類と地球という関係ならば対等だが、わたしと地球となると一喜一憂の事態はその「大いなる相異」から生じるとも言えるのではないかと思う。

 時は流れる。時間おなかに身を置く、永遠とは何か、命の普遍、人類という高みの視点に立っても、地球の上でそっと身を委ねることが得策のように思える。

 「むじょう」というと「無常」「無情」の二つの言葉がある。どちらも仏教語で、対義は「常住」「有情」となる。

 前者は、「万物が変転して常住ではないこと」で後者は「思いやりや同情心がないこと」を意味する。

 自分はこれまでに「無常」について

無常感(観)と「折り合い」[2009年08月14日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/37fc2e80daae1201bcf2a3bf4bae941f

無常という名の病[2009年08月25日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/d33d950c1131249ff47a3f1bfc0bb5a2

空しさの考察にふける者と無常観[2009年09月19日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/e23ebbbe6d3e96d8b5e2eb82ea2f1649

「正しく墜ちる」と「無常」[2009年12月28日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/8654e66e595ddfca820a70d3b6925da6

沙弥満誓・芭蕉の無常観[2010年04月24日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/31bf6f6317c3e9c6551be8ec9c38e47d

「思いやり」について

「思いやり」を思考する[2011年02月01日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/dd1cee7b82d7d406c0b74af41a4d0b78

素人なりの思考を重ねてきました。
 最近では気持的にあまりにも静けさを感じるなどと、その思いを書いたところ今日のような事態に遭遇し、とことん「むじょう」を体感している。

 旧約聖書のヨブ記、終始義人であるヨブは、サタンの「ヨブはいたずらに神を恐れましょう」の一語の前で人類の今日の姿を経験する。

 このことは、すでにエレミヤ書(12-1)の中で、預言者エレミヤによって神に問われている。

 主よ、わたしがあなた(神)と論じ争う時、
 あなたは常に正しい。
 しかしなお、わたしはあなたの前に、
 さばきのことを論じてみたい。
 悪人の道がさかえ、
 不真実の者がみな繁栄するのはなにゆえですか。

と。その答えの流れの中にヨブ記はある。なんたる「むじょう」であるのか。

上記の過去ブログにも書いたが、ゲーテの著『格言と反省』の中の次の言葉を思い出す。、
 
 物事の無常について仰々しくしゃべり立て、
 
 現世の空しさの考察にふける人々を私はあわれむ。
 
 われわれは、無常なものを無常でなくするためにこそ
 
 存在しているのだ 。

今回の事態は自然との折り合いの想定という、高飛車な人類の姿勢への答えにようである。

 「折り合い」の本当の意味は、既にエミリヤにあるように思える。

ゲーテの「現世の空しさ」の「空」は旧約聖書にある「箴言(しんげん)」と「雅歌(がか)」との間にある「伝道の書(第一章1~11)」に記載された次の言葉にみることが出来ることも過去ブログに書いた。

空の空、空の空、いっさいは空である。

 日の下で人が労するすべての労苦は、
 その身になんの益があるのか。

 世は去り、世はきたる。
 しかし地は永遠に変わらない。

 日はいで、日は没し、
 その出た所に急ぎ行く。

 風は南に吹き、また転じて、北に向かい、
 めぐりめぐって、またそのめぐる所に帰る。

 川はみな、海に流れ入る、
 しかし海は満ちることがない。
 川はその出てきた所にまた帰って行く。

 すべての事は人をうみ疲れさせる、
 人はこれを言いつくすことができない。

 目は見ることに飽きることなく、
 耳は聞くことに満足することがない。

 先にあったことは、また後にもある、
 先になされた事は、また後にもなされる。

 「見よこれは新しいものだ」と言われるものがあるか、
 それはわれわれの前にあった世々に、
 すでにあったものである。

 前の者のことは覚えられることがない、
 また、きたるべき後の者のことも、
 後に起る者はこれを覚えることがない。

こう書かれているのである。

<頭の句の「空の空、空の空、いっさいは空である。」>

仏教書を読むような感覚を覚えてしまうが、そうではない。

 ニーチェの言葉に「永遠回帰」がある。

 1881年8月のある日、彼(ニーチェ)がスイス南部のエンガ-ディン地方にあるジルヴァプラナ湖畔を散歩しているとき、とある巨岩のかたわらで、《一切をもう一度、そして永遠に繰り返し体験することへの欲望》が彼を襲う。この「思想」が彼に決定的な衝撃を与え、後に『ツァラトゥストラはこう語った』を執筆する契機になった。

 《あるがままの現存在は、意味もなく目標もなく、不可避的に回帰し、無に終わることもない。すなわち「永遠回帰」。これがニヒリズムの極限の形式である。すなわち無が(「無意味なもの」が)永遠に!》(Ⅲ853、WM55)。

神への挑戦、神は死んだの真意はそこにある。

人類よ! おごることなかれ!

そんな声が聞こえそうだ。

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