思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

神は弱さの中にあり・風に己をまかせて

2015年10月27日 | 宗教

 前回のブログで「帆に受ける風」の話を書き、「風」というどこからとなくおとずれる働きの力を感じながら、聖書に語られる「プネウマ」という言葉を思い出していました。

 『口語 新約聖書』(日本聖書協会、1954年)の「ガラテヤ人への手紙」(ガラテヤ書)の第5章の16は、

 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。

と書かれていて、ここに書かれている「御霊」という言葉が「プネウマ」の訳した言葉です。このガラテヤ書5-16の「御霊(プネウマ)によって歩きなさい。」というところを、

「風に己をまかせきってお生きなさい。」

と訳された聖職者がおられました。その方はカトリック司祭であった故井上洋治さんで、同じ「こころの時代」の2006年4月23日に放送されたEテレ「こころの時代~すべて風の中に~」の中でなぜ「風」と訳されたのかを語られていました。

【井上洋治】 ・・・原文の訳語に、かなり私の生き方が入っていて、私が「風」と訳した言葉は「プネウマ」という言葉なんですね。これは「霊」という意味もあるし、「息」という意味でもあるんです。普通聖書には、「霊の導きに従って歩きなさい」と。たしかに私が、「生きなさい」と言った言葉は、原文はもともとは「歩く」という意味なんですね。

 でも「霊の導きに従って歩きなさい」ではさっぱりわからないので、それに「従って」というところに、お委せの要素が少し足りないような気が僕はするんですね。「おみ風さまに己を委せきってお生きなさい」という、「委せきる」というところに一つの私が流れ着いたところがあるということだと思うんです。

と「プネウマ」について語られていました。意訳、自由訳などという訳本が巷に溢れています。訳者の意(い・こころ)が入っている忠実性ということに重きを置けば論外な話しなのですが、井上先生のお話を聞き、個人的に

 「神の愛とは何か」

という疑問は、私自身の知の求めであり人間思考の観念の転回に非常に重要な話だと捉えています。特に実存的虚無という世界との関係において「神の死」以降の哲学や反哲学、否定哲学というものとの関わりをも含めて、それでも人間には失うことができない宗教/哲学・哲学/宗教の共通項があるように思えるのです。

 ギリシャ哲学、旧約・新約は、文字文化として残されているわかで、その中には大いなる学びがあると思います。この「こころの時代」という番組は、そのような意味において私の学び場となっています。そういう学びの中にあって5年前に書いた「こころの時代」ブログ

ケセン語の聖書[2010年02月07日]

には、ヘブライ語の「プネウマティ」は「吐く息」のことで、ギリシャ語では「命・心」の意味にもなる言葉であることを学んでいました。ですから「プネウマ」が「御心」ということであること、また「御霊」という訳にもなることは理解できるところです。

 それを「風」と意訳された井上洋治さんの意は私に大きな思考の転回を与えてくれました。井上先生のこのように解されていく道のりには浄土教の仏教の教えも織り込まれていきます。私はこの訳が好きで日本人の見えないものを語ろうとする表現力に感動したことを覚えています。

 さて、誰でも知っている新約の言葉と「貧しき者は幸いです。」というイエスの言葉があります。マタイの福音書5章第3節の言葉になるのですが、

「自分の貧しさを知る人は幸いである、天国はその人のものだからである。」

と書かれています。この訳は、フランシスコ会の聖書研究所訳『新約聖書』(1980.11.1)から引用しました。これが『口語 新約聖書』(日本聖書協会)ならば、

「こころの貧しい人たちは、幸いである、天国は彼らのものである。」

とほぼ同じ訳になり、今度は岩波文庫『新約聖書 福音書』(塚本虎二訳)を読むと、

「ああ幸いだ、神に寄りすがる“貧しい人たち、”天国はその人たちのものとなるのだから。」

となっています。違いを語ろうというのではなく、「神の愛とは何か」という迷題に対して大きな示唆を与えてくれます。

「神に寄りすがる“貧しい人たち、」

塚本虎二先生に現れて意訳の言葉とも言える、「神に寄りすがる(者)」に目が留ります。

私自身の聖書の学びの中で考えていた、

「神の愛を求める者」

「神の愛を受ける者」

ある意味、能動的、受動的や自律的・他律的が現われる言葉でもあります。

 先週の日曜日の早朝放送されたEテレ「こころの時代~宗教・人生~」は同志社大学教授木原活信先生の「神は弱さの中にあり」と題したお話でした。個人的に宗教の根源性を追求しようとする私にとってとても勉強になりました。

 100匹の中の迷える1匹の仔羊

神の愛はそこに現れます。番組のサイト紹介には、

「人間は弱い存在。自ら弱さを認めることで他の人を思いやる心が生まれる」という同志社大学教授・木原活信さん。キリスト教に裏打ちされた「弱さを認める生き方」を聞く。

「世の中は、通常、強いこと、物事を行う能力の高いことが、評価される。しかし、人間は、もともと弱い存在であり、弱さを認め合うことで、生きやすい世の中に、多少なりともできるのではないか」と語る、同志社大学教授・木原活信(きはら・かつのぶ)さん。長年、社会福祉に携わってきた。根底にあるのは、キリスト教の信仰。「自らの弱さを認める」とはどういうことかを聞く。

と書かれているように人間の弱さを実感する時があります。個人的には先の実存的虚無とも深くかかわることで、苦悩の内にバックボーンとして信仰に救いを求めた時あるいは、信仰に既に身を置いている時に「できない私」、「Doingできない私」という内心の壁に苦悩します。

 常道的な説諭では「信仰が足りない」となるでしょうし、「破邪的に、すること」のみを強調し求められます。しかし、「できない私」という事態の自覚は、弱い私であるからこそ現れるのであって、存在し生(あ)ること自体に、すでに神のまなざしがあるということになるのだと思うのです。

 神のまなざし。

を語られるとき、「仏のまなざし」のように、

 拝む私と拝まれる私

を重ねることができるように感じました。木原先生が語ったことではありませんが、

「神に寄りすがる貧しい人たち、」

という言葉にある「貧しい人たち」を「弱き人々」と解していました。迷える者たちにこそ神の愛がある。

 神のプネウマを自分でどのように受けるか。

 選民思想から万人の宗教に変容しようとした神の子のプネウマでもあると思います。決して破邪的なものではないのです。

神のまなざしは、仏のまなざしと宗教的根源性をたどれば同じだと解しています。

「神は弱さの中にあり」

番組解説ではありませんが、大いなる学びを得ました。

そして最後に、

「風に己をまかせきってお生きなさい。」

と語る井上洋治先生の声が聞こえてきました。


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