思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

無常感(観)と「折り合い」

2009年08月14日 | 仏教

 今朝の「日めくり万葉集」は、沙弥満誓(さみまんぜい)の一般的に、無常観を詠った歌とする次の歌でした。

 世間(よのなか)を 何に喩へむ朝開(あさびら)き 漕ぎ去にし船の 跡なきごとし

  世のなかを何に喩えたらいいのだろうか。それは、朝早く港を漕ぎ出て行った船の航跡が、何も残っていないようなものだ。(NHKテキストから)

 この歌を「船が漕ぎ去ってしまった跡には痕跡もなくなってしまうように世の中は無常なものだと歌っているのである。」と語るのは『世間とは何か 講談社現代新書』の著者阿部謹也先生で、同書には続いて次のように書かれています。

  この歌は後に勅撰和歌集の「拾遺集」なので次のように変えられて採用されている。

 世間(とのなか)を何に喩へむ朝ぼらけ漕ぎ行く舟の跡の白浪(しらなみ)

  以後この歌はこのような形で世の中の無常を歌った代表作となり、小野篁(たかむら)から、恵心僧都源信、鴨長明、松尾芭蕉と名だたる歌人、俳人がこの歌を基準にして世の中の無常を歌っている。すでに万葉の世界において世の中ははかなく無常だと歌われ、それが連綿と続いて今日に至っているかにみえるのである。

 阿部先生は、「むなしき世間」と題し、『万葉集』の中の「世間」を詠った歌を紹介し解説している。

○ 世の中は 空しきものと知る時し いよいよますますかなしかりけり(大伴旅人)
 月が満ちたり、欠けたりするにも世の中の無常を示しているものだというのである。

○ 世間は 空しきものとあらむとそ この照る月は満ち闕けしける(作者未詳)
 立派な奈良の都が荒れ果てていくのを見れば、世間が無常であることが思い知らされる。ここで歌われているのいも無常感である。しかしこれらの歌の場合「世間」はやや常套句化している観がある。

○ 世間は 常かくのみとかつ知れど 痛き情は忍びかねつも(作者未詳)
 世の中がこんなものだということは頭では知っていても辛い気持ちは耐えかねるという意味であるが、このような世間は今私たちが知っている世間とどこが違うのだろうか。

○ 世間の 女にしあらばわが渡る 痛背の河を渡りかねめや(紀女郎)
 自分が世間並みの女であったならこの河を渡ったであろうにという意味である。ここではこれまでとやや異なった意味で世間(よのなか)が使われている。世間一般の女に対して自己が違った存在として意識されているからである。

 阿部先生は続いて、『万葉集』にあらわれた世間という言葉について以上の例だけから判断するのは危険だがとしながら、参考になることを語っている。

 全体として世間に対する個人の位置が、私たちの場合とかなり違っていることに気づくであrぷ。私たちも世間が無常であるということを知っている。したがって以上の歌も理解しうるのである。しかし『万葉集』の歌人達は世間が無常であると感じてそれを歌にするときに、背後にはっきりと自ら意識する何かを持っていた。

 私たちはどのようなときに世間について想いをいだくだろうか。私たちの多くは世間の中で行きており、自分が生きているその世間が無常であると普段はそのように感じて暮らしているわけではない。万葉の歌人達もそうだったかもしれない。。しかし彼らが世間というとき、彼らには世間の無常を感じさせる別の何かがあった。それは彼らの個人的な生き方である。

  阿部先生は、万葉集の歌の「世間」に無常感をもつ万葉歌人達の心の背後をみています。

 今朝の日めくり万葉集の選者は、東洋文化研究家・著述家でアメリカ出身のアレックス・カーさんです。

カーさんは、

 万葉時代から今にいたるまで、私たちは「世の中」についていろいろ言いながら生きつづけてている。この歌は「世の中」で始まりますが、「世の外」というか、別次元で終わる。そこにはムーブメントがあります。仏教的に言うと、此岸(しがん)・彼岸(ひがん)という意味合いの歌ではないかと思います。こちらは世の中だけれど、向こうへ漕いでどこかへいってしまったのが、世の外。
 さまざまな表現があるでしょうが、極楽浄土とか天国とでもいう意味でしょうね。

 万葉集は一種の原点です。原始的なものだと思います。いろいろなものが霧の彼方から見えてくる。そして、それが初めて言葉になってくる。人とか海とが、まだ密接な時代であったと思います。

と番組で語っていました。阿部先生、カーさんは、このように万葉集の無常歌にについて述べていますが、東洋大学・大正大学で教授をされた仏教学者で法華宗僧侶の田村芳郎先生は、

  『万葉集』の無常歌が、すべて人生無常の詠嘆をもって結びとし、それ以上のことをうたっていないということは、万葉びとたちが、人生の無情に対する悲哀の情に身をまかせ、どこまでも人生のはかなさの中にひたったということである。ここに、また『万葉集』の無常歌の特色が見られるといえよう。これは、しかし万葉びとにかぎらず、後世にまで受け継がれていくので、その意味において、日本人一般の無常観を示すものともいいうる。

と、「伝統の再発見 佼成出版」の中で述べています。

 私は、「人生の無常を結びとし」「はかなさの中にひたったということである」という言い切りのご意見に少々違和感を感じます。

 歌というものを詠む行為には、「たのし(楽)」があり、精神的な満ちたりがともなっているように思います。

 悲哀のうちに沈み込んでいるわけでなく、詠嘆の彼方に極楽浄土・天国があるとするのも、固定的な概念思考だと思うのですが、動的な感情の「折り合い」があるような気がします。

 ※ 著者により「無常感」「無常観」となっています。

 今朝の天候ですが、重い雲が安曇野、松本平を覆っています。
    


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2 コメント

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Ma (seisei)
2009-09-08 16:52:36
この無常観は日本人がもともと持っているのか、それとも伝入された仏教の無常観だのか?私は万葉集に仏教の影響はあるかどうか非常に興味を持っていますが、よかったら、私のMSN:sogo-aphr@hotmail.comを添付してください
コメントありがとうございます。 (管理人)
2009-09-09 05:51:35
 コメントありがとうございます。長くなるので本文に思うところを書きました。
 <添付>の意味が分かりません。HPやブログをされていましたら教えてください。今後もよろしく願います。

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