思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

沙弥満誓・芭蕉の無常観

2010年04月24日 | 仏教

 万葉集巻3-351沙弥満誓(さみまんせい)の歌一首

世の中を 何物(なに)に譬へむ
朝びらき 漕ぎ去(い)にし船の
跡無きごとし

To what shall I compare
    this life?
the way a boat
 rowed out from the morning harbor
  leaves no traces on the sea.

リービ英雄先生の『英語で読む万葉集』の僧侶沙弥満誓の歌です。
 以前アレックス・カーが「日めくり万葉集」の中で紹介していましたので、 「日めくり万葉集からR・Nベラーまで」 と題して、無常観について書きましたが今朝は、リービ先生がこの歌にどのような感慨を受けているのか紹介したいと思います。
 
 数多くの歌人の名前の中で、「天皇から乞食まで」とも言われる幅広い層の有名無名の歌人
の中で、「朝臣(あそみ)」でも「宿禰(すくね)」でも「娘子(をとめ)」でもない「沙弥満誓(さみまんせい)」という名前からは特殊な響きが感じられる。「沙弥」は出家した僧に対する呼び方の一つだが、英語でも、Lord Otomo とか Lady Sakanoue とか何なに house の daughter と違って、Priest  Mannsei という作者名からは、かれらとは質の違った内容の表現を期待してしまう。

「沙弥満誓」は、そんな期待にこたえるかのように、古来、文学にとって根元的かつ最終的な問いを立てる。

世の中を何物に譬へむ
To what shall I compare
this life?

人の世、この人生の比喩を問う。
 何物にたとえようか、という実体を模索するような「問」いに対して、実体が消えてゆくイメージによって「答」える。なのにそのイメージは、可視的なものなのである。

朝びらき漕ぎ去にし船の跡無きごとし

 たったこれだけの文字数の中で、文学の最古層にある「質問」への、完壁で究極の「答え」がつづられる。「跡」という千年の日本語のキーワードを、この場合、 traces(見える跡、可視的な跡)と訳しながら英語に復元してみると、イメージが厳密でしっかりしているから、必然的に次の三行が湊んでくる。
 
the way a boat
rowed out from the morning harbor
leaves no traces on the sea.

 とても簡単に英語になる表現なのである。小さな傑作と言えるイメージ詩なのだが、やはり本物の傑作は、本質的に翻訳しやすいのか。
 
 priestが詠んだ、これは仏教歌である、とか、「世の中」は無常であり、はかないものである、とは言わず、人間の活動が世界の表層をすべるように横切り、世界の表層で跡もなく消えてゆくというイメージをもって歌う。その手法は、たぶん、どの言語にも翻訳可能だろう。
 
 視覚的で、動的な、ことばによる「映像」に近いこの手法は、日本語がはじめて書きことばになった時代の、その書きことばの醍醐味なのである。
 翻訳すればするほど、その事実を確信するようになった。

と解説しています。

「視覚的で、動的な、ことばによる「映像」に近いこの手法は」と、リービ先生は書いています。

 私見ですが、映像=無常観が折り重なってなるその一つの情景がうまく表現されているように思います。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 芭蕉の野ざらし紀行の富士川のほとりでの歌について、保田與重郎先生の『芭蕉』(保田與重郎文庫11 新学社)から

 富士川のほとりでの捨子を見て、その露ばかりりの生命を憐れみつつ、袂(たもと)の食物を投げ与えて通るとき、

 猿を聞く人捨子に秋の風いかに

と吟じて、「いかぞや、汝父に悪まれたるか、母に疎(うと)まれたりか、父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ、ただこれ天にして、汝の性(さが)の拙きを泣け」と誌しつけた。

 この旅は芭蕉自身にとっても、初めから感慨にふけらねばならぬ旅だった。しかもゆくさきざきで、一身のいのちにふれるものが、つねにまちかまえていた。・・・・・・

と書かれていますが、この時の芭蕉の心。
 無常観といえば芭蕉ですが、この句は英訳にするとなると重いですね。

 無常観とはこれほどまでの重いものだと思うのです。

 この芭蕉のこの無常観については、以前ニーチェの言葉と共に「解釈のジレンマ」で書いています。

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2 コメント

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Unknown (ネアンデルタール)
2010-04-24 16:21:10
僕は以前、自分のブログで「過ぎてしまったことはなかったも同じだ、死んでしまえば生まれてこなかったのと同じだ」と書いて、ある人から、「人はそんなふうに思って生きていけるものではないのだから、そんなふうに書くべきではない」といわれました。
あなたは、この問題をどう思われますか。
返信する
その瞬間を生き、生かした生き方 (管理人)
2010-04-24 21:53:11
>ネアンデルタール様
 この問題について今日少々同じような問題を養父母たちと話し合う機会がありました。
 
 養父母は大変苦労された人たちです。私も苦労というとなると、もう少々で定年退職になる年齢ですので当然してないわけではありません。

 その比較ではないのですが、養父母の苦労という話を私自身の問題として見たときに、その差を感じませんでした。そのときの大きな違いは、私は自分の苦労話を人には話さない、話さないと結うより語るに足らないとしてきました。

 そのもとになったのは、その場に熱心に生きることと、熱心に生きることで未来は気づかれるという学びであったとように思います。

 私は過去を振り返りません。だからといって過去を失うわけでもなく、過去の思い出も失うことでもありません。

 執着もないということにもなります。迷いがあるから坐禅をするのでもありません。が、私は常に志向することに心掛けています。常に主体を持って考える。ただそれだけです。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ということで、コメントについてはここまでとします。
 
>人は、体を消して反応してゆく装置として衣装を着るのであり、意識を体からひきはがす装置として「ことば」が機能している<

>拒否反応こそ「いきられるはたらき」なのだ<

>生きてあることのいたたまれなさを抱えているものだからこそ、「もの=まとわりつく」のうっとうしさを深く思い知っているのであり、「こと=出現(こぼれ出る)」に対して深く驚きときめくのだ。<

>言い換えれば、われわれ現代人だって、社会から離脱して社会に対する愚痴や悩みすなわちそうした生きてあることの嘆きを共有しながら語り合う場において、はじめて会話のニュアンス(あや)が豊かになり、そのよろこびを体験するのではないだろうか。<

極めつけは、文頭の方にある、
>意識は、身体に対しても世界に対しても、耳を傾けない。「志向性」を持たない。持たないから、「反応」することができる。<
という言葉。

 自分はどうしても現象学を意識して「志向性」という言葉を使っていますが、考えてみれば、それは根源的なものを言い表せていない。意識の視点などあるのか、その向きはあるのか、その発動源はあるのか。その根源的なものが思考できていませんでした。

 とりあえず上記が記述が印象的で私にない発想でした。

 さらになお。「あや」というやまと言葉も「あやし」「あやかる」「ことばのあや」など意味深いことばです。

>英語よりずっと深く豊かなニュアンス(あや)を生み出している。<

不思議・不安に揺れ動く・動揺し変化する・たくみないいまわし。

実にいい表現だと思います。

終わりに、最近つまらないコメントが入るので、承認受付で対処しています。

今後もよろしく。
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