思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

空しさの考察にふける者と無常観

2009年09月19日 | 仏教

ゲーテの『格言と反省』の中に、
 
 物事の無常について仰々しくしゃべり立て、
 現世の空しさの考察にふける人々を私はあわれむ。
 われわれは、無常なものを無常でなくするためにこそ
 存在しているのだ 。

という言葉があります。仏教の「無常」を考察しているとゲーテの言葉が、刺さるように響くときがあります。

しかし、よくよく見ると、この中に「現世の空しさの考察にふける人々」と言葉があり、私ではないと安堵感しました。

最近では「無常とは何か」というタイトルの中で、哲学者山折哲雄先生の「無常の三つの性格」
 1 世のなかにあるもので永遠なるものはない。
 2 形があるものは必ず滅する。
 3 人は生きて、やがて死ぬ。
を書きました。

 ゲーテの言う「空しさ」「無常」はどのようなものだろうかと考えたくなります。その前に仏教ではなぜ無常が説かれるのか、再度「無常を説く意義」は何かについて書き出してみました。参考文献は水野弘元先生の『仏教要語の基礎知識 春秋社』です。
 
無常を説く意義(同書P144・5)
 理論的には「無常であるが故に苦なり」とか「無常であるが故に無我なり」とかいわれるように、苦や無我の理由として無常が説かれる。
 伝統的には、無常の語には老病死などのように事態が悪く変化するという悲観的な意味が連想されるようであるが、無常とは事態が悪く変化することではなく、よく展開することも無常である。無常であるから悲しいことも起るが、無常であるから不幸を幸福へと向けることもできる。苦しみ悩みを解消し、不完全なものを完全なものへ導く宗教の教えが説かれるのも、諸行無常という基本的な真理が認められるからである。

と書かれており、さらに「無常観」について

 無常の実践的意義は無常観といわれるが、無常観が説かれる意義にはいろいろなものがある。
 第一には近親の人の死などによって世の無常を感じ、宗教心を起こすことになる。インド語で無常をおそれおののくことを宗教心というのはそのためである。
 われわれは得意の間は何事にも反省しないのが常であるが、失意の状態になると自己反省をするようになる。自己反省によって今まで知られなかった正しい目が開け、自己や世間の欠陥を知り、そこに宗教心の芽ばえが生ずる。無常観が宗教心を起こさせる動機であるとされるのはそれである。
 第二には無常を観ずることによって執着や驕慢の心を捨てさせることになる。無常であるから、われわれの身体も、財産や地位・名誉も、いつ悪化したり失われたりするか知れない。無常の真相を正しく認識することによって、我我所(自己や自己の所有物)に対する執着やそれらに対する驕慢(おごり)の心を捨て離れさせ、謙虚の念や思いやりの心を持たせることになる。
 第三には無常観によって、寸時を惜しみ精進努力をさせることになる。時は瞬間的に過ぎ去り、一たび去った時間は取り返すことが絶対にできない。ところでわれわれの現存在は過去における刹那刹那の善悪の積み重ねから成っている。その刹那刹那の行為を、いかによくして行くかが積み重ねをよくする鍵となる。つまり現在の刹那刹那の行為に最善を尽くすことが、われわれの存在を最善のものとすることになる。そこに無常なるが故に現在を慎み、現在をもっとも有効に活用し努力することが必要となってくる。一期一会といわれるるのはその意味である。釈尊が入滅直前に、弟子たちに対する最後の教訓として、
「諸行は衰滅無常の法である。お前たちは不放逸(わがまま勝手な振る舞いをせず)にして目的完遂に努力せよ。」
と申されたのもそのためである。

と解説されています。

 長くなりましたが、ではゲーテのいう「われわれそのものが無常をなくす存在」とはどういう意味なのか、西洋的な「現世の空しさ」「無常」はいつ頃から叫ばれるようになったのか追求したくなる課題です。

 次に、ある詩歌を紹介します。

 空の空、空の空、いっさいは空である。

 日の下で人が労するすべての労苦は、
 その身になんの益があるのか。

 世は去り、世はきたる。
 しかし地は永遠に変わらない。

 日はいで、日は没し、
 その出た所に急ぎ行く。

 風は南に吹き、また転じて、北に向かい、
 めぐりめぐって、またそのめぐる所に帰る。

 川はみな、海に流れ入る、
 しかし海は満ちることがない。
 川はその出てきた所にまた帰って行く。

 すべての事は人をうみ疲れさせる、
 人はこれを言いつくすことができない。

 目は見ることに飽きることなく、
 耳は聞くことに満足することがない。

 先にあったことは、また後にもある、
 先になされた事は、また後にもなされる。

 「見よこれは新しいものだ」と言われるものがあるか、
 それはわれわれの前にあった世々に、
 すでにあったものである。

 前の者のことは覚えられることがない、
 また、きたるべき後の者のことも、
 後に起る者はこれを覚えることがない。

この頭の句の「空の空、空の空、いっさいは空である。」を見ると仏教典かと思ってしまいますが、さにあらず、旧約聖書(一般的な普及版)にある「箴言(しんげん)」と「雅歌(がか)」との間にある「伝道の書(第一章1~11)」に記載されているものです。

 誰が述べた言葉か、伝道の書は、「ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。」と記載されていて伝道者・説教者(コーヘレトまたはコーヘレス)であることは確かですが、名前も聖なる預言者であるかも分からない匿名者です。

 昭和の神学者に有賀鉄太郎先生がおられますが、この伝道の書について細かに分析しています。
 
 有賀先生によると、「空の空、空の空、いっさいは空である。」部分は、「空しいとも空しい、とコーヘレトは言う、空しいとも空しい、一切は空しい。」と翻訳しており、さらに「伝道の書(コーヘレト)」の第八章14を次のように訳し、解説しています。

 「地上で行なわれる空しいことがある。それは悪人の業に相応することがその身に起る義人があり、また義人の業に相応することがその身に起る悪人があるということである。われは言った、これも亦空しいと」
 かれはこのことを「空しい」と嘆いてはいるが、それを不公平なりとして神に抗議しようとはしない。ヨブの場合との対比はここにもっとも顕著である。コーヘレトをして言わしめるなら、そのような憤りを神に対して発することの方が誤っている。神には人間の善悪は問題ではない。神が説かれる生起せしめる事実はそれに関わりなく生起する。だからして義人が苦しむこともあるとともに、また栄えることも有り得るのである。差引きすれば結局なにも残らない、得もなければ損もない、ということになる。そして、それが「空しい」と呼ばれる所以である。

 ここまでくると西洋における「空しい」については、その背後の神の存在を抜きには語れないこと分かります。

 上記「伝道の書第1章1~11」を読んでルーテル大学名誉教授名尾耕作先生は、『旧約聖書名言集 講談社学術文庫P272・3』で、

 これを読むと私たちは、「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて久しくとどまりたるためしなし」に始まる鴨長明の厭世的な『方丈記』をすぐに思い起こします。しかし、「伝道者」は、長明のように俗世を去って仏門にはいることなく、俗世にあっての生きがいを説いています。

「伝道の書」の最終章第12章の13~14には、

 結局のところ、もうすべてが聞かれていることだ。
 神を恐れよ。神の命令を守れ。
 これが人間にとってすべてである。
 神は善であれ悪であれ、
 すべての隠れたことについて、
 すべてのわざをさばかれるからだ。

と記されています。長尾先生は伝道書の結論について次のように述べています。

 伝道者が言おうとしていることは『伝道の書』の結論は、「神を恐れ、神の命令を守ること(神を全幅的に信ずること)」、これが、移り変わるこの世にあって人間のなすべき唯一のことであることがわかる。

と。
 ゲーテの言葉にある「われわれそのものが無常をなくす存在」であるということは、神への絶対的な信頼であるような気がします。

 神様という者は、信ずる人次第だ。
 だから神様は、ああも度々嘲(あざけ)りの的になった。
(「温順なクセーニエン」第4集 ゲーテ格言集 高橋健二編訳 新潮文庫P68)

というゲーテの言葉がありますが、「現世の空しさの考察にふける」者の姿は、神への嘲りの姿ということになりそうです。

 純粋に「空しい」という感慨にあるとき、自己の寄り所が何であるかによって「無常観」も大きく違うことがわかります。
 


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