思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

自傷他害のおそれあり

2006年11月25日 | こころの時代
 狂いと正常、異常と正常の世界を他者に見ることがある。タンザニアから来た女性。日本に来て働きながら日常生活を行なっていたが、ある時から聖書を片手に独り言をいい、ある銀行で大声を出し、自傷他害のおそれから保護され、出入国管理および難民認定法違反で大使館員付添で送還されたことがあった。
 このような状態だと自分の世界の内で他人の声もこころも全て狂いの自分の思考で解釈し更に、第三者には分からない行動、言動に走る。

 インターネット殺人。殺人を依頼されそれを承諾し、殺人を敢行する。家族がおりそれまでは普通に日常生活を営んでいたが、お金に困り、依頼者が死ぬほどに苦しんでいるととの訴えに対し、過去の自分の少年時代の苦しみとダブらせ夢想し救いの手を差し伸べる意志を固め殺人を敢行する。見返りの「報酬は当然だ」と罪悪感は生じない。

 殺人などは戦争、テロも含め、「人として正当な理由はない」と考えるのが善であろう。
 社会制度として死刑判決による刑の執行も社会正義を理由に判断され、いわれなき罪により神代の時代から命を奪われた者もいる。

 個人の善としては、生命の尊厳を理由に許されない行為とされても、集団、社会、国家という組織の中でその論理では生命の尊厳も社会正義として肯定されるが否定もされる。

 原爆使用は究極の悪でありながら善とするのが今の世界、現実である。集団の論理が自己の論理になったとき、善の論理も悪の論理になる。

 人は精神に異常が生ずるように、また狂いが生じるように造られている。
 今という瞬間に、正当性の論理が去来し殺人を敢行する自分があるならばそれは狂いの中にあるのだが、しかしそれを第三者的に見つめる「我」はなく制止する術はない。

 我が愛する者が殺され、それがいわれある死、またいわれなき死であってもその程度もあるが、沸々と憎しみが生じ、報復を希求するようになる。

 また、人は、自傷他害が敢行できるように造られている。
 狂いという異常事態になればそれを選択するように造られている。
 生物学的には、狂い、異常な病原体に対する血液中の白血球の活動に似ている。

 空気を吸い、そこに命がある。その瞬間脅迫もなければ恐れもない。ただそれだけの存在であるが、「そうではあるまい」と人は思考を始め、否定、肯定を始め想いにふける。
 第三者的に、自己を見詰める冷静な己があればどんなにすばらしいことであろうか。

 そして更に、人は、第三者の目を外に求め、そこに「神」「大いなる存在」を観るように造られている。
 それを他の者から知らされるとときとして自己を失う場合がある。
 意識は志向性をもち他を見つめるが、自己は内にあり外に出ることはない。魂が天上から自分を見つめることがあるなどと言われても、私には経験がない。

 教えによって「神」「大いなる存在」を観たら我に帰る。本当の信仰からは狂いや異常は生じない。
 狂いを狂いと感ぜず、異常を異常と感じないときそれは「病」と定義される。
 

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