思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

神仏習合

2010年04月30日 | 哲学

       (昨日の有明山神社周辺の桜です) 

 NHK教育で日曜に放送されている「ハーバード白熱教室」と番組が、再放送を希望する声が多く、再放送されています。

 現代社会の政治哲学・共同哲学を考えるときに一番大事なことは「みんなが幸せになろう」という意見一致の世界作りだと哲学の構築ではないかと、私は思います。

 今の民主主義は、功利主義の「最大多数の最大幸福」という考えに基づいています。しかしこの考え方には「少数派」の意見は無視されるというけ大きな問題があります。

 全体の幸せのためならば、少数の人々の意見は無視してもよい。という考え方が、今では誰もがあまり善い考えではないと思っているのではないでしょうか。

 国家という統合された集合体、地域という共同体までそこで問われるのは、互いの意見の違いを認め合う、折り合いの世界の構築です。

このハーバード白熱教室は、そのような政治哲学・共同哲学の考えを知るにはとてもよい番組だと思います。

 今の民主党をはじめとした各政党を構成する人々の中に、どの程度の本物の導き者がいるのか、メディアに騙されないようにするためにも是非聴講したよいように思います。

この番組を解説した「ハーバード白熱教室ノート」というサイトがあります。とてもわかり易く、番組以上の知識を得ることができますので見ていない人は、ここで勉強するといいでしょう。

 前書きが長くなってしまうのでしまいますので、今朝の本論です。

 日本という国の共通善を考えるときに、大きな問題となるひとつに「宗教」があります。

 日本の姿はどういうものなのか、どういったものだったのか、そんな考えの契機となる話として次の哲学者内山節先生の著書から「神仏習合」を紹介します。(元本『清浄なる精神』信濃毎日新聞社出版部編)

神仏習合
多くの人が指摘していることだけれど、西洋のゴツド(GOD)を神と訳したことは、やはり誤訳だったというべきだろう。西洋の「ゴツド」と日本の「神」では根本的なとらえ方が違うのだから・別の言葉にしておけばよかった。ところが両者を同じ言葉にしてしまつたために、無用な誤解が生じてしまったのである。

 西洋の「ゴッド」は万物の創造主である。自然も人間も「ゴツド」が創った。ところが日本の「神」は違う。自然自体が神であり、人間もまた神になつていく。仏教でいえば釈迦が悟りを開いて仏陀になったのと同じように、すべての人は将来、神となり仏となると考えられていた。日本の伝統的な民衆思想では神と仏は同じものと思ってよく、このふたつが異なったものになるのは、明治元年の神仏分離令が発せられて以降と考えてかまわない。それまで人々は、同じものを、仏教の文脈で語るとき「仏」と言い、土着的な信仰の文脈では「神」と語った。

 今日の私たちは亡くなることを「成仏」すると言うが、本来は悟りを開いて仏になっていくのが成仏である。悟りを開いていなければ成仏できない。ところが日本では、誰もが成仏するようにとらえられている。それは日本では、悟りを開くということと、自然に還るということが同じこととみなされていたからである。悟りを開くとは煩悩を消滅させることで、煩悩は人間だからこそ欲や悩みというかたちで生まれてくる。つまり人間が「私」というものをもっているから生じる。「私」がある以上、自己主張をし、その自己主張から欲や悩みなどが発生するのである。

 だから煩悩を消滅させるとは「私」を消減させることでもあった。「私」などというものにとらわれることなく、「おのずから」のままに生きていくということである。日本の人々には、それを目指すとき自然がみえた。「私」をもつことなく、「おのずから」のままに生きているものとして自然がみえたのである。こうして、悟りを開くことと自然に還ることを同一視していくようになる。亡くなった人の行く末を、人々は仏教の文脈では成仏したと語り、土着的な信仰の文脈では自然に還(かえ)ったと語った。

 鎌倉時代に入ると、悟りを開くことと自然に還ることを同一視する仏教が生まれてくるが、それは仏教と伝統的、土着的な信仰が結びついた結果ともいえるし、そうなることによって仏教が民衆仏教化する基盤がつくられたともいえる。

 土着的な信仰では、自然が神であることと人が神に成ることは、同じことを意味していたのである。人は自然に還り、自然と一体となった普遍的な「生」をえることによって神になっていく。この神となった人々を人間たちは「ご先祖様」と呼んだのだけれど、「ご先祖様」は自然と同一になっているのである。ゆえに人が神に成ることと自然が神であることは矛盾しない。

 こうして自然に包まれていることと、神々に包まれていることとを同一視する信仰が生まれた。しかも、いまは自然や神々に包まれて自分は生きているけれど、将来は自分も自然に還り、神になって、人々を包み、守る側にまわっていく。そこに自分の未来をみながら生きていくのが日本の伝統的な信仰である。そしてだからこそ、生きているうちに「私」を捨てて人々を守る側にまわった人を人々は尊敬し、神杜に祀(まつ)るというようなこともしてきた。私の暮らす群馬県上野村にも、そういうかたちで「神」として祀られるようになった人がいるし、群馬では自分のすべてを捨てて悪代官
と戦った国定忠治(くにさだ・ちゅうじ)も、後に「神」として神杜をつくってもらった。

 いわば自分たちの生きる世界から離れず、同じ目線上に存在しているのが日本の神である。それに対して西洋の「ゴッド」は、自然や人間の創造主であり、人間と同じ高さの目線上には存在しない。「神」と「ゴッド」は根本的に違う。
ところでこのようなことを書いていくと、近代世界に生きる私たちの精神のなかに、変化したものと変化しないで保持されたものとがあることに気づく。一面では私たちは、日本の伝統的な神の概念を忘れた。しかし自然に崇高なものを感じ、過去を築いた先輩たちに手を合わせる気持ちは失っていない。私たちは保存されてきたものと変わりゆくものとの間で生きている。

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 この文章をどう理解するかは、その人の価値観で決まります。折り合いで読めることを希望します。

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