ジャン=リュック・ゴダール『イメージの本』(2018年)を観る。
この映画から、もっともらしい物語やメッセージや幹を見出すことは難しい。斜に構えて悦んでみせる菊地某のほうがまだマシだ(『intoxicate』誌)。
たとえば、シェエラザードが登場し、しかしすぐに中東の状況や暴力を暗示する映像にとってかわられる。それは何なのか。語る者は永遠の生命を持つのか、殺されるのか、埋没するのか。それすらわからないし、わかるとしたらそれは映画という旧来システムの物語でありメッセージである。
われわれは愚かな行いしかできない、それでは何を頼りに生きればいいのか。これは映画システムを借りたクーデターであり、SNSを出発点とした網の目であり、権力を無化せんとする策動であり、大袈裟にいえばゴダールが映画のなかで示唆しているように聖典である。
●ジャン=リュック・ゴダール
ウィリアム・パーカー『Alphaville Suite』(2007年)
ジャン=リュック・ゴダール『パッション』(1982年)
ジャン=リュック・ゴダール『軽蔑』(1963年)