Sightsong

自縄自縛日記

日暮里の初音小路の沖縄料理

2016-06-19 08:46:17 | 沖縄

何気なく「上野経済新聞」を読んでいたら、日暮里に「あさと」という沖縄料理店があるとの記事(>> リンク)。さっそく沖縄オルタナティブメディアのNさんと行くことにした。

ここは、谷中銀座から階段「夕焼けだんだん」を昇って、ちょっと右側に入った横丁「初音小路」にある。わたしも割と近くに4年以上住んでいたことがあるのに、横丁の存在にまったく気がつかなかった。何でも、かつては谷中銀座が栄えたためにマーケットとなっていた場所のようで、まさにそのような作り。裏寂れた感じなのだろうという予断は裏切られ、「あさと」のような古い料理屋も、新しいバーもあって、かなりの活気があった。

「あさと」は開店24年だということで、毎日人が座っていた場所ならではの居心地のよさがある。角煮(東京の沖縄料理なので敢えて「ラフテー」などとは呼ばないのだ)は泡盛と黒砂糖をきかせてあってとても旨い。もずくと玉ねぎが入ったひらやーちーも、生姜が効いた豚の中身汁も旨い。

石垣島出身の店主の安里さんによれば、ちょっと外れてはいてもやはり「谷根千」、ガイドブックを持ったヨーロッパの観光客がしばしば来るそうだ。この日は、三線を習っていてもうすぐ「度胸試し」で沖縄の大会に出るのだという人が、店の三線を借りて、「安波節」や「安里屋ユンタ」を歌った。

Nさんは、ジェームス・ブラウンのドキュメンタリー映画『ミスター・ダイナマイト』のお面をかぶって、JBがいかに画期的であったかという話。映画もずいぶん面白そうなので(てっきり劇映画だと思い込んでいた)、わたしも早く行くことにする。話は津島佑子、カーソン・マッカラーズ、ウィリアム・サローヤン、『白鯨』、ポール・オースター、コリン・ウィルソン、マーク・トウェインなどの小説から、豊里友行、石川真生、石川竜一と沖縄写真の方へ。

とくに、石川真生『大琉球写真絵巻』である。この、コスプレによって沖縄の抑圧された歴史を語りなおす作品の「ためにする」側面をどう視るか。多くの者がまおさんの写真にあってほしいと思うに違いない姿は、米兵や労働者を撮ったリアリズム写真家としてのそれである。しかしそれはそれとして、大傑作『日の丸を視る目』も、かつて沖縄芝居の仲田幸子を撮った作品群も、コスプレであり、歴史の語り直しではなかったのか。それ以上に、まおさんは、観る者が引いてしまうような表現を続けてきた写真家ではなかったのか。そして「ためにする」写真という側面で、豊里友行さんの写真をどう視るか。そんな話。

ところで、夕焼けだんだんの上には、パクチー山盛りの「深圳」の斜向かいに角打ちの「大島酒店」があって、窓には、紀藤ヒロシという歌手の歌う「夕焼けだんだん」のポスターが貼られている。どんな歌なのか興味津々。

誰かに死ぬまでだましてほしい

iphone 6s

●参照
たくさんのミントとたくさんのパクチー
飽きもせずに蒲田の東屋慶名
「東京の沖縄料理店」と蒲田の「和鉄」
『けーし風』読者の集い(26) 辺野古クロニクル/沖縄の労働問題(秋葉原の「今帰仁」)
坂手洋二『8分間』@座・高円寺(高円寺の「抱瓶」)
灰谷健次郎と浦山桐郎の『太陽の子』(神戸の沖縄料理店)
須田一政『凪の片』、『写真のエステ』、牛腸茂雄『こども』、『SAVE THE FILM』(新宿の「海森」)
山之口貘のドキュメンタリー(池袋の「おもろ」)


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4 コメント

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Unknown (24wacky)
2016-06-19 11:18:46
島酒を飲む時間感覚をひさしぶりにもてたすばらしい夜でした。お誘いいただきありがとうございます。
終戦後のマーケットから飲み屋街に変わる時期は、勝手な想像では昭和40〜50年代あたりかなと、地元を参照しながら思いました。その前の昭和20〜30年代に過渡期として混沌とした時期があったのではなどと、こちらも勝手な想像をしています。いずれにせよ興味深い場所です。
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こちらこそ (齊藤)
2016-06-19 13:38:44
こちらこそありがとうございました。愉快な時間でした。
それにしてもあのような路地は癖になってしまいそうです。あとで谷根千の写真集を棚から出して確かめてみたいと思います。
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なつかしいです (terao)
2016-06-30 00:40:36
あさとには、十数年前、近くに住んでいた頃に何度か行きました。常連のお客さんのお話を聞くのが面白かったです。安里さんもお元気そうでよかったです。
沖縄の写真のお話は、私も聞きたかったです。Nさんが『越境広場』1号の石川竜一と豊里友行の対談についてSightsongさんに話されたときは同席していましたので、私も『越境広場』を入手して読みました。
住んでいた頃に誰かから聞いたのか、何かで読んだのか忘れましたが、初音小路は、1950年頃に表通りにたくさん出ていた屋台が規制により撤去されるときに、地主が移転先として提供してできたはずです。表通りとは、日暮里駅から谷中銀座につながる通りのことです。
移転した当時の初音小路は屋台が前身の食料品店や飲食店が多かったはずで、マーケットだったのでしょう。屋台や闇市に起源を持つマーケットは全国にたくさんあるようですね。実家の近くの公設市場もそうでした。公設市場になったところは飲み屋街にはなりにくいでしょうけれど、初音小路は民間が提供したものなので、周囲の変化にあわせて飲み屋が増えていったのでしょう。
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マーケット (齊藤)
2016-06-30 07:26:17
マーケットの出来た経緯がとても興味深いです。公設市場というものも屋台や闇市が起源となっていることがあるのですね。
初音小路は民間の地主が提供ということで、それがどのように違ったのかについてもまた興味があります。かつての写真などあれば見てみたいところです。
このあたりに住んでおられたのですね。私が千駄木に住んでこの界隈をうろうろしていたのは1991年のはじめから95年の3月まででしたが、初音小路にはまったく気が付きませんでした。ぜひ「あさと」にも今度ご一緒しましょう。
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