ミシェル・フーコーに関するシンポジウムの記録が『狂い咲く、フーコー』(京都大学人文科学研究所人文研アカデミー、読書人新書、2021年)としてまとめられている。
フーコーの権力論のミソは、もともと不可視だったグレーゾーンに潜在的なものや可能性が設定され、それが監視や支配の根幹的な原理として強化されていったという歴史の読み解きにある。この発言録でああなるほどなと思えたのは、その生政治のありようが新自由主義につながっているのだという指摘。「コスト=ベネフィット分析」だって、相手をほんらいの姿から市場や統治の対象に落とし込むための手法なわけである。たしかにデイヴィッド・ハーヴェイの新自由主義論にはその観点が入っていない(ずいぶん勉強になったけれど)。この行く先が「自己統治」であるという指摘にはぞっとさせられるものがある。
それから、「語る」ということについて。語る主体や語る内容の一貫性というものがじつはなにか大事なことを阻害しているのであって、そうではなく、分裂に身を置き、分裂を生き抜くことの可能性という観点。パレーシア論はなにも「真実とは」と言っているわけではない。いままで意識していなかったけれどおもしろい。
●ミシェル・フーコー
ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅱ 快楽の活用』(1984年)
ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅰ 知への意志』(1979年)
ミシェル・フーコー『監獄の誕生』(1975年)
ミシェル・フーコー『ピエール・リヴィエール』(1973年)
ミシェル・フーコー『言説の領界』(1971年)
ミシェル・フーコー『マネの絵画』(1971年講演)
ミシェル・フーコー『わたしは花火師です』(1970年代)
ミシェル・フーコー『知の考古学』(1969年)
ミシェル・フーコー『狂気の歴史』(1961年)
ミシェル・フーコー『コレクション4 権力・監禁』
慎改康之『ミシェル・フーコー』
重田園江『ミシェル・フーコー』
桜井哲夫『フーコー 知と権力』
ジル・ドゥルーズ『フーコー』
ルネ・アリオ『私、ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺害した』
二コラ・フィリベール『かつて、ノルマンディーで』
ハミッド・ダバシ『ポスト・オリエンタリズム』
フランソワ・キュセ『How the World Swung to the Right』