ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(原著1918年)は、以下の有名な一文で締め括られる。
「語りえぬものについては、沈黙しなければならない。」(叢書ウニベルシタス版より)
柄谷行人『探究Ⅰ』(講談社学術文庫、原著1986年)は、<他者>なるものを探究し(はじめ)た書である。それによれば、<他者>とは同じ<言語ゲーム>を共有しない者をこそ意味する。例えて言えば宇宙人や猫であり、決して対話が成立することが予見できる者ではない。<言語ゲーム>を共有する<共同体>の中での対話においては、言うことは自ら聞くことであり、独我であり、それは書くことでも何ら変わりはない。それがヴィトゲンシュタイン哲学の核心だという。
論理を追求した結果としての諦念なのかヤケクソなのか、『論理哲学論考』の提示は強く印象的なものだった。いやしかし、論理の枠組こそひとつの<言語ゲーム>であることを考えれば、上の一文も<他者>なるものと絡み合っていたのだと、今、気付かされる。
そうすると、本来<他者>とのコミュニケーションは<命がけの飛躍>であったはずで、それが見えないのは、<共同体>の論理による隠蔽工作が奏功しているからに過ぎない。柄谷は、ここにマルクスの可能性をも見出している。貨幣による価値均衡は後付けのまやかしであり、物々交換はやはり<命がけの飛躍>であった。そして貨幣という存在へのフェティシズム性を見なければならないのだ、と。
読んでいると、どうしても沖縄のことを考えてしまう。裁判の例が挙げられているが、これもそのアナロジイとなりうる(抽象にとどまらないのが柄谷行人の魅力であると感じている)。
「裁判官の判決は、判例として、法的言語ゲームを変えて行くが、それは言語ゲームの外部に出ることにはならない。裁判を経験した者は、弁護士を見方と思うよりも、彼らがすべて共犯して勝手なゲームをやっているのではないかと感じるはずである。さらに、それに同意することは、対話的な「承認」などではなく、国家(共同体)による「強制」である、と。」
閉ざされた政治社会という系にあって、<他者>性を楔のように打ち込むことは如何にすれば可能だろうか。それは柄谷の用語で言えば<倫理>であるはずで、本書でも、ヴィトゲンシュタイン哲学を<倫理的>と位置付けている。
「「言語の意味はその用法である」というウィトゲンシュタインの言葉は、プラグマティックな意味で理解されてはならない。それは、内的な意味(私的言語)から出発するかわりに、≪他者≫との交換というレベルに立ちもどることを主張しているのである。日常言語学派とちがって、彼の認識は”倫理的”である。」
●参照
○柄谷行人『倫理21』 他者の認識、世界の認識、括弧、責任
○小森健太朗『グルジェフの残影』を読んで、デレク・ジャーマン『ヴィトゲンシュタイン』を思い出した
倫理的であることに経済的が加わり、倫理=経済的な運動(アソシエーション)理論を打ち立てたのが、その後の『トランスクリティーク』。そこでは「他者を手段としてのみならず目的として扱う」倫理(カント)を、いかに経済的な運動として実践するかがリアルタイムで問われました。
そして『世界共和国へ』『世界史の構造』と続きます。それを沖縄という場所から試行するというのが自分のポジションなのですが。
ボーダーによらない<括弧>形成の試みと理解します。その<括弧>そのもののボーダーが、<他者>の認識だけでなく<他者>を認識させること、時には<他者>たることにもよって揺れ動くのでしょうか。
挙げておられる柄谷の思索過程を追うためにも、私もゆっくりと柄谷行人の著作を読んでいくことにします。
また,沖縄のみならず,パレスチナとイスラエル,北朝鮮と日本,あるいは外国人労働者の問題等を考える上でも応用可能な示唆に富む議論だと感じました。
いずれにせよ,まだまだ未消化ですので,私もじっくり柄谷の本を読もうと思っています。
ただでさえものすごい暑さの折,余計に暑苦しくなりそうですが(笑)。
<言語ゲーム><他者>を中心とした議論は確かに示唆的です。何かの問題にこの議論を適用し、さらに進めていくことに関しては、抽象から具体への動きを嫌う向きもあるかもしれませんが、むしろ柄谷行人の志向性でもあるのだと思うのです。