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Sightsong

自縄自縛日記

金剛督+香村かをり+大由鬼山@包丁処たち花

2020-06-25 14:37:54 | アヴァンギャルド・ジャズ

桜木町の包丁処たち花(2020/5/24)。マスターがジャズ好きで何度もライヴを行っていたとのことだが、残念ながらこの日でお店をたたんでしまった。料理も雰囲気も最高で、もっと早く知っていればよかった。

Susumu Kongo 金剛督 (ts, fl)
Kaori Komura 香村かをり (チャンゴ、チン)
Kizan Daiyoshi 大由鬼山 (尺八)

驚いたのは金剛さんのテナーの柔軟さ。「アリラン」だけでなく香村さんの打楽器を意識してか韓国の音を出していた。香村さんの叩く強弱には惹きつけられるものがあり、また、即興ゆえかサウンドの連続性よりも多彩さを意識しているように思えた。大由さんの衝撃波には発せられるたびに驚かされた。

終わったあと、桜木町駅のこのへんが良いんだ、飲んで行こうとの金剛さんのお誘いもあり、香村さんと3人で太陽ホエール。愉しかった。

Fuji X-E2、7Artisans 12mmF2.8、XF60mmF2.4

●金剛督
Meg with Reed Dukes@武蔵境810 Outfit Cafe(2019年)

●大由鬼山
林ライガ vs. のなか悟空@なってるハウス(2017年)


今野勉『宮沢賢治の真実』

2020-06-25 13:10:19 | 思想・文学

今野勉『宮沢賢治の真実 修羅を生きた詩人』(新潮文庫、原著2017年)。

元テレビ演出家による、謎解き宮沢賢治のような本。途中までは退屈だったのだが(賢治言語のひとつひとつの解読など)、後半になっておもしろくなってきた。

と言ってもここで書くとネタバレになってしまうのでちょっとだけ。真偽についてはこれからゆっくりと。ウフフ。

賢治が特別に気にかけていた人(恋を含め)は、妹のとし子だけだったか。性欲は重要なファクターだったか。賢治やとし子にとっての信仰とは。『銀河鉄道の夜』にタイタニック号事故がどのように反映されたのか。最終稿でなぜブルカニロ博士が消えたのか。カムパネルラは誰だったのか。どこにでも行ける切符とは何だったか。など、など。

●宮沢賢治
『宮沢賢治コレクション1 銀河鉄道の夜』
『宮沢賢治コレクション2 注文の多い料理店』
『宮沢賢治コレクション3 よだかの星』
草野心平『宮沢賢治覚書』
横田庄一郎『チェロと宮沢賢治』
ジョバンニは、「もう咽喉いっぱい泣き出しました」
6輌編成で彼岸と此岸とを行き来する銀河鉄道 畑山博『「銀河鉄道の夜」探検ブック』
小森陽一『ことばの力 平和の力』
吉本隆明のざっくり感


佐野眞一『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』

2020-06-25 10:39:21 | 沖縄

佐野眞一『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』(上下巻)(集英社文庫、2008/11年)。出てからかなりの時間が経ってしまったが、ようやく読んだ。

沖縄ヤクザの戦後史も、それが沖縄空手や実業家たちとかなり密接にかかわっていたことも、ほとんど知られていない。また、沖縄現代史といえば沖縄戦や施政権復帰や基地負担に偏っており、「沖縄財界四天王」(大城組の大城鎌吉、國場組の国場幸太郎、琉球セメントの宮城仁四郎、オリオンビールの具志堅宗精)について「本土」の者が言及することが少ないのもその通りである。知らないことが多く勉強になった。

「大文字」ではなく「小文字」で語る歴史を重視することは良い。また「清濁併せ吞む」ように立場の異なる者との関係を深めていった者たちに「人間らしさ」を見出すのも良い。だが、その結果、なんであれ談合的な政治を行ってきた者たちばかりを評価していることはダメだろう。辺野古についていま読んでみると、著者の見立てが実に甘かったことがよくわかる。

●佐野眞一
佐野眞一『僕の島は戦場だった 封印された沖縄戦の記憶』(2013年)


松本潤一郎『ドゥルーズとマルクス』

2020-06-25 08:52:08 | 思想・文学

松本潤一郎『ドゥルーズとマルクス 近傍のコミュニズム』(みすず書房、2019年)

ドゥルーズ=ガタリは、世界史は必然の結果ではなく、誤謬と偶発性によって、遭遇によって、無数の欄外と余白によって、とらえられるものだとした。その意味で、歴史とは「目的論と必然性から逃走した『プラトー』」であるとした。これがおそらく多くのドゥルージアンを惹きつける特徴である。

それではマルクスはどう位置づけられるのか。ドゥルーズ=ガタリは、マルクスも、資本主義を固定された所与のコードとしてではなく、無数に可能であったかたちのひとつとして認識していたのだと見出していた。「産業宦官」すなわち「暴力を被る対象を生みだしつつその暴力を資本制の前提へと押し上げる国家装置、あるいはあらかじめストックされるものとしてのみ『過剰』と名指したうえで労働を収奪する捕獲装置と相同の暴力を行使する資本主義の『概念的人物』」は、そのひとつに過ぎなかったというわけである。

この「資本主義的公理」から、資本主義内部にありつつどのように逃れるか。本書ではバディウがその「非-部分」について「出来事」と呼んだと指摘する。廣瀬純氏によれば、その「出来事」すなわち革命について、フランス現代思想の面々がそれぞれ異なるとらえ方をしていた。(本書でもこの公理系の「反実現」モデルの探求の手がかりを「革命」と呼んでいる。)

ここでおもしろい点は、ファシズムに対するものとして、すなわち固定的なコード支配に対するものとして、コミュニズムを置いていることである。すなわち、一般性=わかりやすさとは「支配階級または国家に奉仕する知」であり、「物語-襞という脱説明的な叙述(描写)」が諸個人の特異性を支える経験であるのだ、と。

すなわち私たちの可能性は、失敗を通じた想像力の共有にあり、KYにあり、非談合にある。不幸=公理、と極端に言ってしまってもよいのかもしれない。

●参照
ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『ディアローグ』(1996年)
ジル・ドゥルーズ『フーコー』(1986年)
ジル・ドゥルーズ『スピノザ』(1981年)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(上)(1980年)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(中)(1980年)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(下)(1980年)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』(1972年)
フェリックス・ガタリ『三つのエコロジー』(1989年)
アンドリュー・カルプ『ダーク・ドゥルーズ』(2016年)
佐藤嘉幸、廣瀬純『三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治哲学』
廣瀬純『アントニオ・ネグリ 革命の哲学』
廣瀬純トークショー「革命と現代思想」
吉本隆明『カール・マルクス』
四方田犬彦『マルクスの三つの顔』