Sightsong

自縄自縛日記

吉本隆明のざっくり感

2007-08-31 23:46:51 | 思想・文学
新宿の「模索舎」で見つけた、『賢治文学におけるユートピア・「死霊」について』(吉本隆明資料集67、猫々堂)。吉本隆明のテキストをめんめんと出し続けるということにまず驚く。これは2007年8月に出た最新刊のようだ。

大学時代、吉本隆明の『共同幻想論』に困ってしまった私だったが、このような「語り」は激しく面白い。無骨な剣豪のように、下品に、豪快に、ざっくりとイメージを言い換えていく姿が快感でもある。

宮沢賢治というもののイメージ。鳥の目になったかと思うと蟻の目になったり雨粒になったりし、いつの間にか読者にその視線が「降りて」くる。私たちは瞬時に、そして同時に、動物にも鉱物にも物質にもなる。

そして、賢治の本質のひとつは、具体的ではない、「よくわからない」がそのままの状態なのだと喝破する。

また重要なかれのトートロジーの思想で「わけのわからないところ」そのものが存在するという理念を抜きにしては、宮沢の思想は成り立っていない。「中学生」がよくかんがえる程度の空想が、あまりに真剣に卓越した詩人によって考えられているので、読むものもまた真剣な中学生とならざるをえない。

アニメ映画『銀河鉄道の夜』(杉井ギサブロー)の魅力も、猫の見開いた目のエッジ、揺れ動きにあるのだ。

埴谷雄高の『死霊』を叩き台に、彼の資質と存在意義を語るのもふるっている。『死霊』の登場人物たちがそれぞれ体現する、「極端な観念というものの権化」を、「青年期に一様に誰もがやってみる特徴」とざっくり述べた上で、『死霊』を「一種の青春小説」とするのだ。

してみれば、つまらないことで絶望的になったつもりになり、引っ越したばかりの部屋で、正月、ひとりで『死霊』を読み続けた私の行動も、青春だったと理解できる(笑)。

埴谷雄高が幻視し、かつそこから情況を振り返った、その未来(あくまでイメージ)に関して、次のように語る。

しかしそこに到達するのは簡単じゃなくて、どうしても精神的なインテリゲンチャ、あるいは革命的インテリゲンチャでもいいですけど、そういうインテリゲンチャの倒錯した心情、思想の世界というのを必ず通過せざるをえないだろうなっていうふうに思える必然性があるんです。

といってもなかなかこの魅力を伝えられないのであって、ロラン・バルトではないが、テキストの愉悦、語りの海のなかで漂いながら読んでいく楽しさが、吉本隆明にはあるような気がする。



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