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自縄自縛日記

小森陽一『ことばの力 平和の力』

2013-08-23 00:33:39 | 思想・文学

小森陽一『ことばの力 平和の力 近代日本文学と日本国憲法』(かもがわ出版、2006年)を読む。

著者の小森氏(東大)は、「九条の会」事務局長でもあり、本書も、日本国憲法の歴史的な意義を明らかにしたものだ。

樋口一葉、夏目漱石、宮沢賢治、大江健三郎。近現代において重要な作品を残した4人の足跡を追うことによって、どのような時代の特質が見えてくるのか。

樋口一葉は、日清戦争のただなかに登場した。この戦争における清国への宣戦布告は、「ようやく国際法に基づいた戦争ができるようになった」という嬉しさがあふれた、明治天皇のメッセージであったという。人びとは毎日戦争報道に一喜一憂し、それに伴って活字メディアが成長した。一葉は、その時代にあって、「いやだ」を発し続けた。

「有史以来」などではなく、戦争という国家暴力によって生まれたレイプと売春宿。一葉の「いやだ」は、そのような暴力構造に向けられていたのだ、という。したがって、このことは現在の諸問題につながっている。

「・・・「従軍慰安婦」の問題に、あれほど二世、三世議員たちが恐怖し、歴史の捏造を企み、それをなし遂げつつあるということは、そこに戦争を推進する勢力の断末魔のあがきがかかっているということでしょう。」

夏目漱石は、近代化の意味を問い続けた文学者であった。いびつな開化が進んでいった結果、個人と国家との間の矛盾は、どんどん大きくなっていく。その危険性を感知し、国家権力の暴走に恐怖した。

有名な講演録『私の個人主義』は、実は、確実に権力の中枢に入る人たちに語られたものであった。漱石は、彼らに対し、諌めるように言うのだが、著者は、これをいまの日本の状況そのものだとする。そして、国家と権力との根源的な対立を、憲法九条が解決してきたのだ、と。

「・・・苟しくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もなし、権力を使ふ価値もなし、又金力を使ふ価値もないといふことになるのです。 (略) もし人格のないものが権力を用ひようとすると、濫用に流れる。金力を使はうとすれば、社会の腐敗をもたらす。随分危険な現象を呈するに至るのです。」

宮沢賢治が活動した時期は、第一次世界大戦後であった。1920年代、戦争とは犯罪であるとの反省から軍縮が進められ、幣原外交があり、軍縮に同調した浜口首相が狙撃され(1930年)、翌年、満州事変が勃発した。そして日本は破滅へとひた走る。賢治は、そのような歴史の転換点にあって、戦争は人を人でなくするものだとの考えや、「正義の戦争」などないのだという見方を、小説において展開した。

「・・・賢治は、殺すか殺されるかという二者択一のなかに人間が追い込まれてしまうと、そのとき人殺しは正当化されてしまうんだと見抜いていました。そのような状況に陥った人間は、もはや敵の兵士も生き残れますように、などという願いを持つことはない。だから平和のときに何をするかが大事なことなのであって、戦争になったら終わりなんだということです。戦争という事態をつくりださない、その抑止の仕方が最大の問題です。あたりまえのことですが、人間が人間としての倫理を持ちうるのは平和なときだけなのです。」

どうだろうか、最近の『はだしのゲン』検閲事件を思い出させることでもないだろうか。

大江健三郎は、戦争責任を「あいまい」なままにして、米国の家畜となった日本のありようを問う。それは、敗戦という転換点において、日米の利益が一致し、「国体護持」を行ってきたからであった。

本書において繰り返し提示されているあやうさは、現在、またさらに大きくなったように思える。著者は、このような危機の時代において、すぐれた文学を読み込み、ことばの力を活性化していくべきだと願っている。まさに、その権利をもたない者たちが出鱈目なことばを操っているいま、このことは極めて重要である。

●参照
沖縄「集団自決」問題(16) 沖縄戦・基地・9条(小森陽一)
小森陽一『沖縄・日本400年』
市川崑の『こころ』と新藤兼人の『心』
吉本隆明『賢治文学におけるユートピア・「死霊」について』
ジョバンニは、「もう咽喉いっぱい泣き出しました」
6輌編成で彼岸と此岸とを行き来する銀河鉄道 畑山博『「銀河鉄道の夜」探検ブック』
『大江健三郎 大石又七 核をめぐる対話』、新藤兼人『第五福竜丸』
大江健三郎『沖縄ノート』


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