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Sightsong

自縄自縛日記

福田克彦『映画作りとむらへの道』

2016-11-21 16:56:23 | 関東

福田克彦『映画作りとむらへの道』(1973年)を観る。小川プロのスタッフであった福田氏が、小川紳介『三里塚 辺田』(1973年)の制作現場を撮った1時間弱の記録映画である。

最初に、辺田の歴史や自然をとうとうと話すお爺さんを撮る場面がある。また、『辺田』には使われなかった場面のラッシュが挿入される。90日間も拘留されていた青年行動隊の20人が保釈されたことを、農民放送局が放送塔からアナウンスする夕方の場面であり、その間、カメラは動かない。実にいいフッテージのように思えるのだが、この使い方を巡って、炬燵に座って、小川プロの面々があれこれと議論している。「包める」場面は、カメラは変に動かさないほうがよい、村の人は東京の人と違って退屈しない、一方「包めない」お爺さんの話はアップでカメラも動かしたほうがよい、と。そうか、このような撮影や編集の模索があったのか。

小川プロ作品のように、手段や具体や技を見つめるものとして、撮影と録音の工夫を語る場面があって、これもまた面白い。カメラはエクレールの16ミリ、レンズはアリマウントのシュナイダー、録音は同録の定番ナグラ、マイクはAKG、そして水道管や煙突やクッションなんかを使って工夫し、撮影者が音を聴こえるように飛ばす仕組みもあった。

『辺田』の名場面のひとつは最後の女性たちによる念仏講だが、映画に採用されたものよりも和やかなところもある。途中で、お婆さんたちが福島民謡「相馬二遍返し」を歌っているように聴こえる(そのメロディに「相馬」とも聴こえるし、「ハア イッサイコレワイ パラットセ」という囃子もある)。これに関して、小川氏は、黒澤明『七人の侍』で使われた田植え唄の囃子と一緒だと発言している。『七人の侍』では多くの田植え唄を集めて選んで使ったはずだが、「相馬二遍返し」は田植え唄でもなく場所も違う。さて、どうだったのだろう。

議論で面白いことのもうひとつは、農村における「肝煎役」への注目だ。情報通で、商売上手で、調整ができて、しかし表には出てこない人たち。ここではそういった人たちを、本当の「ヒーロー」だとする。この発想が、のちの『1000年刻みの日時計-牧野村物語』における百姓一揆の場面にも入っているのかもしれない。

映画の最後は、映画の資金作りの苦労について、変に朗らかに描いている。実際にはいろいろなことがあったはずで、当時も今もこれを観て愉快には思えない人たちが少なくないのではないかと思うがどうか。

●参照
小川紳介『1000年刻みの日時計-牧野村物語』(1986年)
小川紳介『牧野物語・峠』、『ニッポン国古屋敷村』(1977、82年)
小川紳介『三里塚 五月の空 里のかよい路』(1977年)
小川紳介『三里塚 辺田』(1973年)
小川紳介『三里塚 岩山に鉄塔が出来た』(1972年)
小川紳介『三里塚 第二砦の人々』(1971年)
小川紳介『三里塚 第三次強制測量阻止闘争』(1970年)
小川紳介『日本解放戦線 三里塚』(1970年)
小川紳介『日本解放戦線 三里塚の夏』(1968年)
『neoneo』の原発と小川紳介特集
大津幸四郎・代島治彦『三里塚に生きる』(2014年)
萩原進『農地収奪を阻む―三里塚農民怒りの43年』(2008年)
鎌田慧『抵抗する自由』 成田・三里塚のいま(2007年)
鎌田慧『ルポ 戦後日本 50年の現場』(1995年)
宇沢弘文『「成田」とは何か』(1992年)
前田俊彦編著『ええじゃないかドブロク』(1986年)
三留理男『大木よね 三里塚の婆の記憶』(1974年)


向島ゆり子@裏窓

2016-11-21 14:37:13 | アヴァンギャルド・ジャズ

新宿ゴールデン街の裏窓にて、向島ゆり子ソロ(2016/11/20)。入院中で無理かなと思ったが、休診の日曜ゆえ、行くことができた。

向島ゆり子 (p, vln)

マスターと向島さんを除き、11人で一杯の店内。2人はカウンターの中に入り、3人はずっと立っている。入ると珍しくビートルズが流れていて、向島さんがそれに合わせてピアノを弾いていたりしていた。

しかし、それは気紛れによるものではなく、1曲目は「Fool on the Hill」。この夜の演奏は、亡くなって4年くらいが経つ今井次郎さんに捧げられたものだったのだが、今井さんは自由保育で「3年間くらいひたすら空を見上げて回っていた」、その話を向島さんが思い出したというわけだった。そして、主に、今井さんが病院生活の中で書いた「かわいい」曲が演奏された。「My Blue Heaven」も演った。向島さんはずっとピアノを弾き、最後に、ヴァイオリンで再び「Fool on the Hill」。

淡々とメロディを大事にする演奏、ときに激しくてもその印象は変わらない。弾く人も聴く人もその場に存在することを証明するような音楽だった。

●参照
飯島晃『コンボ・ラキアスの音楽帖』(1990年)
パンゴ『Pungo Waltz』(1980-81年)


ヤン・ウソク『弁護人』

2016-11-21 11:32:43 | 韓国・朝鮮

ヤン・ウソク『弁護人』(2013年)を観る。入院中だが外出許可を得て、新宿のシネマカリテに足を運んだ。

韓国では、朴正煕が暗殺された後も、全斗煥大統領の強圧的な政治により、民主化運動が潰されていた。1980年の白色テロ・光州事件があって、さらに1981年には、釜山において民主化への蕾を刈り取るため、捏造により、読書会(E.H.カー『歴史とは何か』など!)を行っていた19人の学生や会社員が逮捕された。この映画のもとになった「釜林事件」である。かれらは国家保安法のもと拷問され、嘘の自白をさせられた。ようやく無罪となったのは、2014年になってのことである(>> ハンギョレ新聞の記事)。

ソン・ガンホが演じる弁護士は、盧武鉉をモデルとしている。ソン・ガンホへのインタビュー記事によれば、釜林事件の関係者から「少しでも嘘を描いたら告訴する」と言われたため、名前を変えたそうである。しかし、作る側も観る側も事件を前提としていることには間違いがない。

弁護士は貧困家庭に育ち、高卒で弁護士になるがそのことを馬鹿にされ、それでもオカネを稼いだ。まったく政治に疎く、全政権下での検閲後の報道に疑問など持たないような人だったが、知りあいが逮捕・拷問されることを知り、その弁護士を引き受けることとなった。短期的には無罪を勝ち取ることはできなかったものの、公権力の乱用に抗し、民主化への道を拓いたのだった。

それにしても良い演出である。ユーモアもあり、客席からは笑いが何度も起きる。そしてソン・ガンホの味のある実に良い演技もあって、最後まで目を離すことができない。韓国では長らく、「アカ」と呼ばれることが死を意味したわけだが、そのことをこの映画のように作り公開できる時代になったのだな。むしろ、どうしても現代日本と重ね合わせて視てしまう。

ところで、映画館の壁に、秋山登氏(元朝日新聞編集委員)によるレビューが貼りだされていた。文章の最後になって、「ついでながら、ウソクのモデルは若き日の盧武鉉元大統領だそうである。私たちは、盧元大統領の晩年の栄光と屈辱と悲劇を知っている。余計なことを言うようだが、映画はフィクションである。主人公の晩年に、モデルのその後を重ね合わせるようなことはしないほうがいい。」と、不自然でまさに余計なことを記している。なぜここまで現実を視ることを回避させようとしているか。掲載誌は『月刊hanada』、つまり、かつて『マルコポーロ』にホロコースト否定論を掲載し、いまは『Will』と同様に花田紀凱氏が編集長を務めている雑誌である。まあ、合点のいくことだ。


小川紳介『三里塚 五月の空 里のかよい路』

2016-11-21 10:15:16 | 関東

小川紳介『三里塚 五月の空 里のかよい路』(1977年)を観る。

小川紳介『三里塚 辺田』(1973年)から数年後、小川プロの三里塚シリーズ最終作。また、『日本解放戦線・三里塚』(1970年)に続くシリーズ2本目のカラー作品でもある。前作のあと、小川プロは山形の牧野に移り住み、そこを「生活地」として、コメ作りを行っていた。

視線が土地と生活の詳細に注がれることは、依然として、徹底している。それにより、権力と抵抗との闘いというようなドラマを形成しようとする意思はさらさらない。

具体的には、辺田の産土神社たる面足神社の経緯とご神体(かつて塚から掘り出された埴輪)。春になると北総台地に吹き荒れ、せっかくの土壌を吹き飛ばしてしまう赤風。そして、反対同盟が建てた鉄塔(1972年『三里塚 岩山に鉄塔が出来た』で描かれる)が突然の機動隊の「家宅捜索」と撤去の仮処分により、身軽なレンジャー部隊により倒されてしまうのだが、そのとき、農民たちがどこで何をしていたか、また炊き出しのおにぎりを食べる様子。ヘリの風が西瓜畑に吹き付け、どのようにせっかくの西瓜をダメにしてしまったかの分析。機動隊が使った毒ガス弾(催涙弾など)の中身の分析。この徹底した手法の映画において、生活や闘いのプロセスを抽象論に落とし込むことは不可能だ。

鉄塔の撤去にあたり、機動隊員は、関西から青森まで「全国動員」がなされていた。ここに、いまの高江と重なる弾圧の姿を視ることができるわけである。

西瓜畑をダメにされた農民の言葉が重い。自分のことを「きちげえだと思っているだろう」。「今まで出てった人も決して好き好んで出てってったわけじゃない」。畑に「愛着がある」というのは、「なじむまで10年も15年もかかる」という技術的なことを表現しているのでもある。移転したところで、限られた時間の人生の中で新しいことなどできない。イデオロギーで反対しているわけではない。「農民から土地を取り上げられたら何が残るっていうの」。

●参照
小川紳介『1000年刻みの日時計-牧野村物語』(1986年)
小川紳介『牧野物語・峠』、『ニッポン国古屋敷村』(1977、82年)
小川紳介『三里塚 辺田』(1973年)
小川紳介『三里塚 岩山に鉄塔が出来た』(1972年)
小川紳介『三里塚 第二砦の人々』(1971年)
小川紳介『三里塚 第三次強制測量阻止闘争』(1970年)
小川紳介『日本解放戦線 三里塚』(1970年)
小川紳介『日本解放戦線 三里塚の夏』(1968年)
『neoneo』の原発と小川紳介特集
大津幸四郎・代島治彦『三里塚に生きる』(2014年)
萩原進『農地収奪を阻む―三里塚農民怒りの43年』(2008年)
鎌田慧『抵抗する自由』 成田・三里塚のいま(2007年)
鎌田慧『ルポ 戦後日本 50年の現場』(1995年)
宇沢弘文『「成田」とは何か』(1992年)
前田俊彦編著『ええじゃないかドブロク』(1986年)
三留理男『大木よね 三里塚の婆の記憶』(1974年)