Sightsong

自縄自縛日記

『チャイナ・ガールの1世紀』 流行と社会とのシンクロ

2009-08-11 22:00:00 | 中国・台湾

インターネット新聞JanJanに、李子雲+陳恵芬+成平『チャイナ・ガールの1世紀 女性たちの写真が語るもうひとつの中国史』(三元社、2009年)の書評を寄稿した。

>> 『チャイナ・ガールの1世紀 女性たちの写真が語るもうひとつの中国史』

 本書を読み始めたとき、中国という激変した社会の様子が、ファッションにも反映されるのだろうという興味があった。それは浅薄な理解にすぎなかった。社会がファッションを要請し、ファッションは社会をときに追い越し、それを歴史として振り返ってみればシンクロしているのだ。

 はじまりは上海だった。アヘン戦争などを経て、<帝国>という異物との接点であり続けた魔都である。いびつな力はいびつな流行を生み、駆動した。それがいずれは、新興国家・中国のいびつな発展という内部的な力によって駆動されることとなった。文化大革命もそのひとつだ。本書によってクロノロジカルな変貌を眺めていると、ファッションというものの怪物性さえ見えてくる。

 纏足というしきたりがあった。孫文により、1912年、法令で禁止される。本書では、「“足”の解放」について、1歩を踏み出し難い世界への1歩だったとする。そして女性は“足”で立ち、外に飛び出し、新しい人生を広げた。この生活の変化が、都市の商業文化に影響し、社会が時代美女を創造し始める。何とも素敵な解説だ。

 1930年代になり、カレンダー広告は、女学生をヒロインとするものからモダン奥様に眼を向ける。消費社会の進展が要請した姿であった。明らかに購買能力があり、成熟したイメージが新商品に沿ったものだったからだ。その後、左翼・職業婦人・勤勉・質素といったイメージの変貌を経て、文革期には勇ましさが主流を占めるようになる。

 だからといって、上からの統制のためにファッションが変えられたとばかりは言えず、女性たちは緊張せずに自らを主張し、優美さを工夫したりもしている。つまり、政治社会からの1方向性ではないのだ。

 マスメディアがキャリアウーマンのことである「女強人」を宣伝したころ、化粧は攻撃的な雰囲気を漂わせ、肩パッドもそれを引き立てている。このあたりは、80年代日本のトレンディドラマに代表されるイメージとシンクロするようで、ここに至ってのクロスボーダーぶりは興味深いものだ。

 現代はどうか。グローバリゼーションも懐古趣味も交じり、アイデンティティの探求ぶりがそこには読み取れるのだという。現代の北京や上海の街頭風景の写真を見ると、日本を含めた他国と似ているようであり、独自なようでもあり、いずれにしてもファッショナブルで格好良い。現在進行形であるから、視線はもはや双方向で多方向に交錯している。

 静かに興奮させられる面白さだ。


金城功『ケービンの跡を歩く』

2009-08-11 02:12:19 | 沖縄

宜野湾市立博物館で、その界隈で掘り出された軽便鉄道(ケービン)の台座を目にしてから、ちょっとノスタルジックな気分での興味が湧いた。那覇空港近くのゆいレール展示館にも、幅が狭いケービンのレールをはじめ、時刻表や写真を見ることができた。

金城功『ケービンの跡を歩く』(ひるぎ社、1997年)は、そのゆいれーる展示館に、参考図書として置いてあったものだ。帰りの那覇空港の売店で探したら、あっさり見つかった。著者は元・沖縄県立図書館長。退職後、かねてからの希望であったケービンの跡を辿る作業を始める。

ケービンには3路線があった。すべて起点は那覇、現在のバスターミナルのところらしい。「仲島の大石」は、ケービン当時からある。そして全て、戦争のため1945年に廃線となった。

与那原線 那覇~与那原。所要32分(自動車で26分)。1914年営業開始。
嘉手納線 那覇~嘉手納。所要77分(自動車で60分)。1922年営業開始。
糸満線 那覇~糸満。所要67分(自動車で50分)。1923年営業開始。

3路線それぞれに1章が割かれており、駅や線路跡を探して歩いたり、現地の老人に尋ねたり、といった過程が順に書かれている。最初は、「スーパー○○の裏を北西に入り、30m歩くと・・・」という書きっぷりに困惑していたが、沖縄県の道路地図を横に開いておいて読むと、俄然楽しくなった。

たとえば嘉手納線。国道58号線にぴったり重なっていたわけではなく、集落や地形に沿って右へ左へとよれ続ける。逆に、58号が、米軍の都合のいいように開発したものであることもわかってくる。米軍といえばパイプライン通り。この、なかなか返還されなかった道に沿っても、ケービンは走っていた。宜野湾の真志喜か大山あたりで今度は58号の北側に出て、ターンム畑(田芋)の中を走る。パイプライン通りから離脱して58号を跨ぐのは、まさに宜野湾市立博物館近く、米兵の住宅がちらほらありそうな界隈のようだ。歩くスピードで書いているので、風景もゆっくり見えてきて面白い。


宜野湾、方向転換をする界隈のガジュマル Leica M4、Biogon 35mmF2、Rollei Retro400、イルフォードMG IV RC

比喩でなく、スピードは実際に遅かった。平均時速15km/h程度だったそうで、老人から聞き取ったエピソードがいろいろと紹介されている。例えば、

○上りでは自力で進めないことがあり、乗客が降りて押した。
○坂を上るために石炭をどんどん入れ、燃えきっていない石炭を外にほおり投げた。それで、サトウキビ畑でボヤが何回もあった。
○線路脇までキビが植えられていて、学生や機関手が時々抜いてはかじりついていた。失敗して落ちた機関手もいた。
○学生がよく飛び乗ったり、停止する前に飛び降りたりした。
○那覇の波之上祭のときには、多くの人がぶら下がるようにして乗ってきた。若者たちはまともに料金を払わなかった。

本書が書かれたのはもう10年以上前。既に、道路は大きく改変されていて、線路跡も駅舎跡もほとんどが姿を消していたという。あるとしても、「溝の中」といった具合である。しかし、歴史だけにとどめておくのはいかにも勿体ない。