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Sightsong

自縄自縛日記

シドニー・ルメット『狼たちの午後』

2014-12-31 20:11:52 | 北米

シドニー・ルメット『狼たちの午後』(1975年)を観る。

1972年、ニューヨーク・ブルックリン。ソニー(アル・パチーノ)は、仲間ふたりとともに銀行強盗を行う。しかし、そのひとりは怖気づいて早々に逃げ出し、さらに、もたもたしているうちに、銀行が大勢の警官に包囲されてしまう。交渉役の警部はまったく警官たちを統率できず、テレビ局や野次馬たちがやってくると、お互いにドツボにはまってゆく。ソニーは「アッティカ!」と叫び、1971年のアッティカ刑務所暴行事件の記憶が生々しい状況で、警官への反感を引き起こし、群衆を味方につける。ソニーの目的は、ゲイの恋人の性転換手術費を捻出することにあって、それもまた群衆の共感を呼ぶ。

さすがルメット、固くてテンポがよい。奇妙なコメディだと思って観ていたら、次第に社会の矛盾がそこかしこに噴出してきて、目が離せない。

アル・パチーノの「アッティカ!」で思い出したので、アーチ―・シェップの『アッティカ・ブルース』連作を引っ張り出して聴くことにする。

●参照
E・L・ドクトロウ『ダニエル書』、シドニー・ルメット『Daniel』


ロイ・ローランド『Mickey Spillane / The Girl Hunters』

2014-11-09 09:28:09 | 北米

ロイ・ローランド『Mickey Spillane / The Girl Hunters』(1963年)を観る。

何しろ、パルプ・フィクションの原作者ミッキー・スピレイン自身が、探偵マイク・ハマーを演じているというのだから、好奇心を抑えないほうが難しい。そんなわけで、ついDVDを入手してしまった。

題材として冷戦を取り入れてはいるものの(スピレイン本人も共産主義の脅威を喧伝する人だった)、映画の99%は、妄想的なフッテージが寄せ集められている。

夜の街。酒場のチンピラ。残酷な殺し方。簡潔でぶっきらぼうな話し方(最後に「Why not?」が大好き)。男性至上主義。お色気シーン(いまいち、スピレインに「lovely girl」と言わせる割には魅力的でもないが、趣味の違いか)。ああ、アホらしい。

それにしてもスピレインはガッチリした体格をしているな。本人もパルプを地で行くような生活をしていたのだろうか・・・そんなわけはないね。

あれ?ジョン・ゾーンがスピレインに捧げた連作のジャケットは、この映画のスチル写真?

●参照
ミッキー・スピレイン、ジョン・ゾーン


ポール・オースター『トゥルー・ストーリーズ』

2014-10-31 07:11:40 | 北米

ポール・オースター『トゥルー・ストーリーズ』(新潮文庫、原著1997-2002年)を読む。

書店で読んだことのない『The Red Notebook』を見かけ、あれこれは未訳だったっけと探すと、既に日本独自版のエッセイ集のなかに収められていた。なぜ今まで気が付かなかったのだろう。

ここに集められているエッセイ「赤いノートブック」、「その日暮らし」、「スイングしなけりゃ意味がない」、「事故報告」などのなかでは、実にたくさんの偶然話が紹介されている。オースター自身の体験もあれば、近い人に聞いた話もある。

それらは信じ難いものばかりだ。「事実は小説よりも奇なり」とはよく言われることだが、まさに、このような実話を小説にすると、出来過ぎた物語だとして一蹴されてしまうだろう。それが味噌なのであって、実は、オースターの作品世界は、世界のフシギを核として創りあげられている。

世界はもともとフシギなものであり、いくつもの円環が形成されている。大抵の場合、誰もそのことに気づかない。わたしもこのような信じ難い偶然話をしろといわれても、ひとつかふたつひねり出せば上出来である。むしろ、オースターという魔術師であるからこそ、世界のフシギが吸い寄せられ、そこで可視化されるのである。ちょうど、「今日の偶然」なるメモをいくつも残していた赤瀬川原平のように。

●ポール・オースター
ポール・オースター+J・M・クッツェー『ヒア・アンド・ナウ 往復書簡2008-2011』(2013年)
ポール・オースター『Sunset Park』(2010年)
ポール・オースター『Invisible』(2009年)
ポール・オースター『闇の中の男』再読(2008年)
ポール・オースター『闇の中の男』(2008年)
ポール・オースター『写字室の旅』(2007年)
ポール・オースター『ブルックリン・フォリーズ』(2005年)
ポール・オースター『オラクル・ナイト』(2003年)
ポール・オースター『幻影の書』(2002年)
ポール・オースター『ティンブクトゥ』(1999年)
ポール・オースター『リヴァイアサン』(1992年)
ポール・オースター『最後の物たちの国で』(1987年)
ポール・オースター『ガラスの街』新訳(1985年)
『増補改訂版・現代作家ガイド ポール・オースター』
ジェフ・ガードナー『the music of chance / Jeff Gardner plays Paul Auster』


ウディ・アレン『マンハッタン』

2014-09-22 07:13:39 | 北米

ウディ・アレン『マンハッタン』(1979年)を観る。前回ヴィデオを借りてから、ゆうに20年は経っている。

スノッブな饒舌、夜も昼もない都市の生活、孤独、馬鹿馬鹿しくて苦しい恋愛、強迫観念。こういうものに弱い。もしかしたら、初めて観た学生のとき以来、この映画が妄想するものに、多少なりともわたしも支配されてきたのではないかと思えてしまうほど、刺さる。

冒頭にグッゲンハイム美術館の螺旋が登場し、雑踏を見せられ、「Rhapsody in Blue」、「But not for Me」、「Embracable You」などのガーシュインの名曲を聞かされては、また敢えて勘違いをするためにマンハッタンに行きたくなるというものだ。


ヴィム・ヴェンダース『ミリオンダラー・ホテル』

2014-09-20 13:06:07 | 北米

ヴィム・ヴェンダース『ミリオンダラー・ホテル』(2000年)を観る。

ロスの古いホテルに棲む、変人たち。この中に、富豪の息子も入り込み、ある日、屋上から身を投げた。富豪に捜査を依頼されたFBIの捜査官(メル・ギブソン)、死んだ男の親友(ジェレミー・デイヴィス)、孤独な女の子(ミラ・ジョヴォヴィッチ)たちが登場し、一期一会の選択をしていく。

これは現代のクズたちの物語である。もちろん、誰もが例外なくクズであるという意味で。登場人物たちの後戻りできない切迫感に、こちらもとらわれてしまう。

ちょうど、『エンド・オブ・バイオレンス』(1997年)や『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(1999年)に失望させられた直後ゆえ、ヴェンダースの作品ながら敢えて無視していたのだった。この変人たちの物語を観に行くべきだった。

●参照
ヴィム・ヴェンダース『パレルモ・シューティング』
ヴィム・ヴェンダース『ランド・オブ・プレンティ』、『アメリカ、家族のいる風景』


ハル・ハートリー『ブック・オブ・ライフ』

2014-09-14 22:21:49 | 北米

ハル・ハートリー『ブック・オブ・ライフ』(1998年)を観る。

20世紀末における『黙示録』の物語である。

イエスとマグダラのマリアが、ニューヨークに現われる。イエスのパソコンの中には、「The Book of Life」が入っており、7つの封印のうち4つまでが解かれている。5つ目の封印をほどくと、『黙示録』通り、殉教者の魂が現われる。イエスは、人を裁けと訴える殉教者に対しても、サタンに対しても、また他の関係者に対しても、さらに封印をほどくことを拒否する。それは、人間世界を滅ぼすことへの、かれの迷いによるものだった。

映像はデジタルヴィデオで撮られており、今観ると、iphoneの画像よりも低画質であり、それがまた新鮮(無理に言えば)。まあ、しょうもない物語ではあるのだが、イングマール・ベルイマン『第七の封印』の厳かさが冗談としか思えないことを考えると、このスピード感のあるポップな現代劇のほうが余程マシなのだった。

そんなわけで、映画に刺激されて思い出し、岡田温司『黙示録』(岩波新書)を読み始めた。このような直接的な映画だけでなく、『黙示録』が与えた影響は非常に広範囲に及んでいそうだ。

●参照
ハル・ハートリー『シンプルメン』、『はなしかわって』


ジョイス・キャロル・オーツ『Daddy Love』

2014-09-13 08:32:54 | 北米

サウジへの行き帰りに、ジョイス・キャロル・オーツ『Daddy Love』(The Mysterious Press、2013年)を読む。

6歳の男の子ロビーは、突然、駐車場で誘拐される。母親ダイナは、息子をさらったバンを止めようとして、顔も身体も滅茶苦茶にされてしまう。誘拐犯は、「ダディ・ラヴ」と名乗り、ロビーを自分の息子「ギデオン」として育て、支配する。 

この、ダディ・ラヴの狂気があまりにも怖い。まずは、顔と身体とが別個に開く木箱にロビーを閉じ込める。逃げようとすると銃で撃つ。友達作りを許さず、ギデオンに与えた犬が吠えると途端に銃殺する。やがて、ダディ・ラヴは、ギデオンを精神的に支配し、ギデオンは逃げる機会があっても逃げることができなくなる。

オーツは、短いセンテンスのひとつひとつにおいて「Daddy Loveは・・・」と書く。それは畳みかけるような技術であり、読む者にも強迫観念を抱かせるものだ。実際に、怖れながらも、次へ次へと読むことをやめることができない。しかも、この極端に独りよがりな「愛情」は、たとえその1パーセントであっても、おそらく誰もが身に覚えのある人間の狂気なのであり、だからこそ怖いのである。

ダディ・ラヴは、12歳になったギデオンに厭き、殺そうとする(彼の美意識では、もはやその年齢では純真さを失う)。ギデオンは逃げ、6年ぶりに発見され、親元に戻されることになる。しかし、時間は戻らない。母親の抱く恐怖は、また別の姿になっていく。このあたりの迫りくる描写もさすがである。 

●参照
ジョイス・キャロル・オーツ『Evil Eye』
林壮一『マイノリティーの拳』、ジョイス・キャロル・オーツ『オン・ボクシング』


ギャレス・エドワーズ『ゴジラ』

2014-09-07 04:46:25 | 北米

香港からリヤドに向かう機内で、ギャレス・エドワーズ『ゴジラ』(2014年)を観る。

(悪い意味で)典型的なアメリカ映画である。軍人はヒロイックな使命感に満ちており、自己犠牲を厭わない。妻子が主人公を待って大変な目に遭い、最後に抱き合う。

ゴジラの造形にも違和感がある。あごがない。背びれのラインが三本。叫び声が違う。目が小さすぎる。そんなに強くない。人間の業を背負った雰囲気が皆無。

ああ、あほらし。


マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』

2014-09-05 23:38:07 | 北米

マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』(新潮文庫、原著1876年)を読む。名翻訳家・柴田元幸による2012年の新訳である。

もちろん少年時代にジュブナイル版を読んだし、映画などで、漆喰の塀塗り、家出と悪党の発見といった有名なエピソードに何度も触れてもいる。(そういえば、父親が8ミリか16ミリの映画フィルムと映写機をどこかから借りてきて、自宅で上映会をやったことがあった。弟の顔にケーキをぶつけるラストシーンだった。)

それでも、あらためてオトナになって読んでみると、描写が実に味わい深い上に、幼少期の記憶をほじくり返されるような感覚を覚える。少年時代が甘美な記憶に彩られているというわけではない。むしろ逆で、思い出すと情けなくて叫びたいほど恥ずかしいことばかり。それゆえ、トムに感情移入しながらも、いたたまれない気持ちになるわけである。

トウェインがこの小説を執筆したのは南北戦争の後だが、かれは、戦争前を思い出しながら書いたのだという。黒人差別もある。アメリカの田舎(ミズーリ州)は、こんな雰囲気だったのかという楽しさもある。

些細なことだが、口琴(ジューズハープ)が、当時からあったのだということが発見だった。いまと同じ形だったのかな。

●参照
酔い醒ましには口琴 


フィリップ・K・ディック『ティモシー・アーチャーの転生』

2014-08-27 07:20:14 | 北米

福岡から帰京する機内で、フィリップ・K・ディック『ティモシー・アーチャーの転生』(サンリオSF文庫、原著1982年)を読了。

エンジェルの夫ジェフは、自分の父親であり、かつ大司教でもあるティム(ティモシー)が、イカレた女性カースタンと関係を持ったことを機に、自殺する。一方、ティムは、イエス以前のユダヤ教が、幻覚キノコを信仰の中心に置いていたことを突き止め、異端へと突き進む。それを信じるなら、イエスさえもドラッグの普及者に過ぎないのだった。やがて、あの世からジェフが戻ってきては、ティムとカースタンとにメッセージを伝える。カースタンもティムも死に向かう。

『ヴァリス』3部作の掉尾を飾る本作は、前の2作(『ヴァリス』『聖なる侵入』)とは、ディックが妄想する「神」との距離感が大きく異なるようだ。前2作では、大いなる存在に気付き対峙する人間の姿が描かれていたわけだったが、本作では、そのことは当然視されている。むしろ、偉大さをどうとらえればよいのかわからない「神」は、不可視なだけにグロテスクでさえある。

ここでディックが妄想する「神」の時空間は、まるで膨大なアーカイヴの海。その中で、意識や記憶を含めて情報は共有され、「わたし」も「あなた」も確固たる別々の存在ではなくなっている。

読んでいると、あまりの毒々しさと、ヴィジョン倒れ手前のあやうさとで、意識が混濁してくる。『ヴァリス』に続き、そのうち、『聖なる侵入』と本作も、早川文庫から新訳が出される予定であるらしい。3部作を最初から再読するのが楽しみでならない。

●参照
フィリップ・K・ディック『聖なる侵入』(1981年)
フィリップ・K・ディック『ヴァリス』(1981年)
フィリップ・K・ディック『ユービック』(1969年)
フィリップ・K・ディック『空間亀裂』(1966年)
フィリップ・K・ディックの『ゴールデン・マン』(1954年)と映画『NEXT』


鎌田遵『ネイティブ・アメリカン』

2014-08-17 15:58:09 | 北米

鎌田遵『ネイティブ・アメリカン ― 先住民社会の現在』(岩波新書、2009年)を読む。

言うまでもないことだが、アメリカは白人による侵略によって拓かれた地である。「発見」以前から住んでいた先住民は一様ではなく、有名なチェロキー、ナバホ、ホピ、アパッチなど多くの部族がいた(いる)。先住民の部族数は500以上、先住民の血を引く人の数は412万人(2000年)とされるが、これは正確な数字ではない。申告や承認に基づくものであり、漏れも未承認もあるからだ。

アメリカ連邦政府は、19世紀後半から部族員の規定を活発化させ、その結果、先住民の土地や権利は著しく奪われる結果となった。現在では、内務省のインディアン局が先住民の担当部局であり、各部族の居住地(国内に約320)を認め、また、概ね民事の司法権は部族政府に帰属する。しかし、当然ながら、過去の不正により奪われたものは戻っていない。

どうしても、収奪政策と同化政策の様子を、琉球/沖縄など日本の先住民問題と関連づけながら読んでしまう。

●アパッチ族出身のジェロニモは、対白人抵抗闘争が制圧されたあと、最後の居場所を万国博覧会の展示会場に見つけ、自らを見世物とした(1898年、1901年)。この博覧会にはアイヌ民族も「招待」され、好奇の視線に晒された。
→ 大阪での「人類館事件」は1903年であり、ここでも、琉球人やアイヌ人が「展示」された。
●1920-30年代、先住民に対する同化政策が苛烈なものとなった。本名を捨てるよう命じられ、母語を話すと、口のなかに洗剤を入れられ、「悪魔の言語を吐く口」を洗われた。
→ 自発的な改名、方言札
●先住民居留地は貧困で雇用機会がなく、そのことが、米軍への入隊者の多さとなってあらわれた。その流れは、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争へと継承され、先住民の帰還兵数は17万人にも及んだ。また、18歳以上の先住民人口の22%もが帰還兵である(2006年)。
→ 貧困層の入隊
●アメリカのウラン鉱山の9割が先住民居留地やその周辺にある。核実験の場所も同様。
→ 辺境の再生産
●先住民でもないのに、あたかも先住民であるかのように振る舞う人=「ワナビー」が出現した。
→ 願望としての沖縄

もちろんすべてが写し絵になるわけではなく、単純な比較はできない。しかし、少なくとも、先住民を認め、国家のなかで共生していこうとする動きに関して、日本はあまりにも鈍感であり、遅れているということはできる。

●参照
国立アメリカ・インディアン博物館


ジョン・カーペンター『ゴーストハンターズ』

2014-07-22 07:27:45 | 北米

ジョン・カーペンター『ゴーストハンターズ』(1986年)を観る。原題は『Big Trouble in Little China』。

サンフランシスコのチャイナタウン。突然、主人公は闇組織の抗争に巻き込まれ、友人の婚約者とその女友達を助けるために、アジトに潜入する。敵の首領は、かつて秦の始皇帝に敗れ、真の肉体を取り戻したいと希求する魔物だった。

ブックオフに500円で置いてあったのでつい入手したのだが、500円の価値があったのかどうかすら判断できないおバカ映画。次々に出てくる妖術の使い手を眺めていると、余りにもくだらなくて脇腹が痛くなってくる。心底から馬鹿馬鹿しいと思える。さすが、ジョン・カーペンター。

●参照
ジョン・カーペンター『スターマン』


ジョージ・ロイ・ヒル『ガープの世界』

2014-07-13 21:34:43 | 北米

ジョージ・ロイ・ヒル『ガープの世界』(1982年)。いやあ懐かしい。ジョン・アーヴィングの長い小説を、新潮文庫の2分冊で読んだのが高校生のとき。友人の家に泊まりに行って新聞のテレビ欄を開いたら、夜中に放送することがわかって、ひとりだけ起きて、カットだらけの吹き替え版を観たのが大学生のとき。

レンタルヴィデオ店はあっても、なかなか観たいものは置いていなかった。そのため、何軒もの会員になっていた(なかでも、音羽にあった文芸坐経営の店がすばらしかった)。それが、今では、DVDもネット配信も溢れている。これだって中古盤で500円。簡単すぎて哀しい。

看護婦の母は、第二次世界大戦中、ろくに言葉を発せなくなっていた死に行く兵士と強引に交わり、ガープを産んだ。ガープは成長し、レスリングに没頭し、恋に落ちる。母は男性を悪とみなす運動のリーダーとなり、過激なオピニオン本がベストセラーになる。ガープも作家になる。やがて、夫婦の間には亀裂が走り、悲劇が訪れる。

アーヴィングの小説はおとぎ話のようだったが、この映画も、ドライに明るい画面、断片化したさまざまな物語、ロビン・ウィリアムスの個性などによって(高校生役を演じるロビンにはムリがあるのだが・・・)、やはり現実から微妙に遊離した物語になっている。世界をファンタジックに描くという点で傑作。

ところで、最大の悲劇は、ガープの妻が浮気をする車に、ガープの車が追突してしまうときに起きる。要は、その衝撃で、浮気相手の大事な部分が無くなってしまう。高校生のとき、そのくだりを読んで、マサカコンナコトガと慄然としたものだった。映画ではさすがに直接的には描けず登場人物が説明するだけだが、それにしても、いまだに慄然とする。

●参照
ジョージ・ロイ・ヒル『明日に向かって撃て!』 


ジョージ・ロイ・ヒル『明日に向かって撃て!』

2014-07-13 06:25:33 | 北米

ジョージ・ロイ・ヒル『明日に向かって撃て!』(1969年)を観る。アメリカン・ニューシネマの名作だが、わたしにとってはリアルタイムの映画ではない。とは言っても、1990年くらいにレンタルヴィデオで観て以来。

ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード、キャサリン・ロス、それぞれのキャラクター作りがハマっていて、みんなが好きになってしまう。

ブッチ・キャシディ=ニューマンは、頭脳明晰で、いつも余裕たっぷりに冗談を口にする。しかし、実は、「人を撃ったことがない」。サンダンス・キッド=レッドフォードは豪放で弱いところは見せない。しかし、保安官たちに追いつめられて崖から川に飛び込まざるを得ないとき、実にバツの悪い顔をして、「俺は泳げない」。エッタ=ロスは、自立していて、可愛くて、セクシー。

時代は19世紀末、米西戦争のとき。旧時代の権力であるスペインは、アメリカに敗れ、カリブ海やフィリピンでの支配権を失うことになる。ブッチやサンダンスも、自らを旧世代の消えゆく存在だと認めつつ、それに抗って個性を振りまいている。ちょうど、サッカーのワールドカップにおいて、古いシステムでの強さを妄信したブラジルチームに重ねあわせてしまったりして。