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Sightsong

自縄自縛日記

フィービー・ケイツ出演『パラダイス』

2012-10-24 08:00:38 | 中東・アフリカ

昔、フィービー・ケイツが割と好きで、『グレムリン』(1984年)やら映画雑誌やらを見てはああ可愛いなあと思っていた。

そんなわけで、ebay探索をしていると、まだデビューしたての10代の頃に出演した『パラダイス』(スチュアート・ギラード監督、1982年)の韓国版DVDを発見し、思わず入手してしまった(勿論、他の「ついで」に)。パッケージには英語と韓国語の字幕があると表記してあるが、実際のところ韓国語しか用意されていない。こんな製品を売っていいのか。しかし、英語も単純だしまあいいかと思いなおし、観た。

19世紀のバグダッドで、英国人の女の子と米国人の男の子が、悪辣なる族長たちに親を殺され、なんとか砂漠のオアシスに逃げ込む。そして、お互いを強く意識する。(それだけ。)

ストーリーは単純明快でご都合主義、演出も何もあったものではない。フィービー・ケイツのヌードシーンがやたらと多い。あとはノーコメント(笑)。


イエメンの映像(5) ラッセ・ハルストレム『Salmon Fishing in the Yemen』

2012-07-24 07:30:00 | 中東・アフリカ

ジャカルタ行きの機内で、ラッセ・ハルストレム『Salmon Fishing in the Yemen』(2011年)を観る。ポール・トーディによる同名の原作小説『イエメンで鮭釣りを』の映画化だが、こちらはそのうち読もうと思いつつまだ手をつけていない。

英国政府に勤める水産の専門家アルフレッド(ユアン・マクレガー)は、イエメンの富豪からだという依頼を受ける。中東のイエメンで鮭釣りをしたいだなんて、金持ちの道楽にも程がある、無理だと断るが、英国首相官邸からは大きな圧力がかかってくる。アフガニスタンを攻撃するなど中東での評判を落としていた英国にとって、これはイメージアップ戦略になると判断されたのだった。

「だって鮭は水が沢山あって、しかも冷たい水でなければダメなんだよ」
「だいじょうぶ。すでに貯水池が完成しているし、イエメンは山岳地帯だから結構涼しい」
「英国の川から鮭を運ぶなんて、環境破壊もいいところだ。反対が大きすぎてムリだ」
「養殖ものでなんとかなる」

イエメンの富豪と一緒に魚釣りをしたり視察をしたりしているうちに、アルフレッドもその気になり、プロジェクトはどんどん進んでいく。何しろオカネは潤沢にある。そして鮭を放流したところ、魚道を遡上しはじめる。大喜びもつかの間、このプロジェクトを欧米におもねるものとして批判する勢力(イエメンは多数の部族からなる社会なのだ)が、貯水池を破壊し、すべてが台無しになってしまう。

しかし、まだ鮭は生きていた。英国の妻に離婚を宣言し、もう帰るところがないアルフレッドと、アフガン帰還兵の彼氏よりも事業パートナーのアルフレッドを選んだハリエットは、現地に居残り、富豪とともにプロジェクトを再開する。

何しろユアン・マクレガー(英国で本当に出会いそうな風貌)が演技するアルフレッドのオタクぶりが愉しい。オフィスでは釣り道具で遊んでいたり、プロジェクトの説明をするときには不必要な漫画を描いてみたり、取り憑かれたようになって夢中に話したり。事業パートナーのハリエットも、余裕があるときにはそれが面白くてたまらずアルフレッドに魅かれていくが、恋人がアフガンで行方不明になったと聞くと、心配して訪ねてきたアルフレッドをアスペルガー症候群扱いして罵る有様だ。ユニークだとプラス評価されているうちはいいが、病的だとマイナス評価されると打たれ弱いのは、万国共通のオタクの立ち位置か。あなたもわたしも無縁ではないよ。

この映画を観てから着いたインドネシアでは、ノルウェーの事業パートナー(映画の、ではなく、わたしの)と雑談していたとき、ノルウェーの名物はと訊くと、そりゃサーモンよ、旨くて国内ではあまり高く売れないから日本に輸出しているのよ、なんて話。映画を監督したハルストレムは隣国スウェーデンの出身。そのあとしばらくして、なぜかインドネシアの宿の親父が、サーモンの皮は旨い、特にクリスピーにすると最高だと叫んでいたりして、あとで思いだすと、話は妙につながっていた。

イエメンの風景はというと、貯水池近くの建物が少し登場するだけであり、残念ではあった(ロケも別の場所?)。とは言え、かつてシバ王国時代に南イエメンで建造されたマーリブ・ダムがミネラルウォーターのラベルになっているなど、イエメンと貯水池との関係は深い。

ところで、昔サヌアで小さな涸れ川ワディだねと言うと、いや違う、ワディは大規模なものだ、小さいものは●●と呼ぶのだ、と訂正された記憶がある。それが何だったか忘れてしまった。

●参照
イエメンの映像(1) ピエル・パオロ・パゾリーニ『アラビアンナイト』『サヌアの城壁』
イエメンの映像(2) 牛山純一の『すばらしい世界旅行』
イエメンの映像(3) ウィリアム・フリードキン『英雄の条件』
イエメンの映像(4) バドゥル・ビン・ヒルスィー『A New Day in Old Sana'a』
イエメンとコーヒー
カート、イエメン、オリエンタリズム
イエメンにも子どもはいる
サレハ大統領の肖像と名前の読み方 


イエメンの映像(4) バドゥル・ビン・ヒルスィー『A New Day in Old Sana'a』

2012-07-14 12:11:58 | 中東・アフリカ

バドゥル・ビン・ヒルスィー『A New Day in Old Sana'a』(2005年)を観る。

イエメン首都のサヌアに滞在するイタリア人の写真家、フェデリコ。彼のイエメン人助手タリクは、ある夜、自分が婚約者ビルキスに贈った白いドレスを着た女性が、道で躍っているのを目撃する。それはビルキスではなく、別の女性イネスだった。ビルキスの家は金持ちで、そのドレスも窓から外に投げ捨てられていたのを、イネスが拾って、つい着て躍ってしまったのだった。結婚の日が近づくと、タリクは、ビルキスではなくイネスを愛していることを自覚する。イネスと一緒に逃げようと約束するタリクだが、なかなか外出できず、そしてイネスは毎晩約束の橋に立つ。

ヴェールで顔を覆った女性たちが、実はもの言わぬ存在ではなく、人の噂話が大好きだという設定が面白い。ここだけの話だが、ビルキスが破廉恥にも夜中に躍っていた(良家の娘としてあり得ない)、いやイネスがドレスを盗んだのだ、いや実はタリクはイネスを愛しているのだ、などと、ゴシップが凄まじいスピードで拡散していく様子は、別の言語体系かと思わせるほどだ。

フェデリコが使うカメラは、ニコンF3と、ニコマートの何か(輸出仕様のニッコールマット)。ずっとどこかに滞在して写真を撮るなんて羨ましい限りだ。それにしても、「ニコマート」と聞くと、どうしてもイメージするのはスーパーマーケットであり、それが入手を妨げてきた。

サヌアの家々は相変わらずデコレーションケーキのようだ。サレハ大統領の退陣を求めた騒乱のあと、街はどうなっているのだろう。

●参照
イエメンの映像(1) ピエル・パオロ・パゾリーニ『アラビアンナイト』『サヌアの城壁』
イエメンの映像(2) 牛山純一の『すばらしい世界旅行』
イエメンの映像(3) ウィリアム・フリードキン『英雄の条件』
イエメンとコーヒー
カート、イエメン、オリエンタリズム
イエメンにも子どもはいる
サレハ大統領の肖像と名前の読み方


1998年7月、カイロ

2012-07-05 07:14:01 | 中東・アフリカ

エジプト、カイロ。

ちょっと空いた時間に映画館に入った。2館つながっている隣りでは、『タイタニック』を上映していて、多くの人が次々に吸い込まれていった。わたしはそちらではなく、何だかよくわからない方に入った。

案の定のしょうもない三角関係の映画で、言葉がまったく解らなくても、筋は解った。観客は数人だけで、後ろの方に座った2人の男が仲睦まじくしていた。映画のタイトルはいまだ判らずじまい。

エジプトはそれっきりだ。いまどのような空気なのか、体感してみたくはある。


カイロの映画館 Pentax MZ-3、FA28mmF2.8、Provia100、DP


土本典昭『在りし日のカーブル博物館1988年』

2012-06-12 00:12:32 | 中東・アフリカ

土本典昭『在りし日のカーブル博物館1988年』(2003年)を観る。(レンタル落ち品を500円で入手した。)

『よみがえれカレーズ』撮影時の未使用フィルムを用いた「私家版」の作品である。音楽が何と高田みどり

映画は、地球儀でアフガニスタンの場所を示すところからはじまる。ここは、古代から、ヨーロッパと東洋とを行き来する際に通らざるを得ない地であった。紀元前4世紀のアレクサンダー大王も、アフガニスタンを踏破し、滞在した。そして、彼の東征により、ギリシャ文化がインド、ガンダーラなど東方の文化と混淆し、化学変化が生じた。

ギリシャ風の造形文化が、仏足石や蓮の花などによって間接的に仏陀の存在を示していた仏教文化に、仏像をもたらした。映画で紹介される、カーブル博物館収蔵品の数々は、このことを文字通り雄弁に語る。

ガンダーラのハッダ遺跡から出土した彫刻では、ブッダの横にヘラクレスが控える。何気ない彫刻においても、ヨーロッパ的、インド的など、混淆から形が出てくる力を感じさせて面白い。なかには極めて現代的な顔の造形もあって驚かされる。それだけではない。同時期に興隆していたゾロアスター教の影響により、仏教彫刻には火焔がみられる。

現在はどうなのか判らないが、当時、アフガニスタンの歴史教科書は6世紀のムハンマドの生誕からはじめていたため、多くの人々が、それ以前の歴史をこのカーブル博物館で学んでいたという。

1918年に創立され、1989年のソ連軍撤退まで、この博物館は無傷であった。しかし、その後数年間で、タリバンが偶像崇拝の禁止を原理的に掲げ、博物館の多くを破壊してしまった。そして、2001年にはバーミヤンの磨崖仏まで破壊されるにいたった。

モフセン・マフマルバフは、『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』(2001年)において、アフガニスタンに向けられる視線の不在を嘆いている。この映画は、政治や現代社会そのものについてはないにせよ、明らかに、滅ぼされるアフガニスタンの文化を凝視しようとした視線であっただろう。破壊される前の過去の文化を大事にとらえた、貴重な映像である。

映画の最後に、アフガン北部の都市マザリシャリフにあるブルーモスクが紹介される。青い石の造形がとても美しいモスクである。土本監督は、イスラム美術はモスクの形で表わされるのだとしたあとに、「あらゆる美術は、その時代の宗教心によって創られたものだという気がする」と述べている。極論ではあっても、一面ではその通りだろう。わたしもいつの日かアフガニスタンを訪れてその文化に接してみたい。

●参照
土本典昭『ある機関助士』
土本典昭さんが亡くなった(『回想・川本輝夫 ミナマタ ― 井戸を掘ったひと』)
モフセン・マフマルバフ『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』
モフセン・マフマルバフ『カンダハール』
『タリバンに売られた娘』
セディク・バルマク『アフガン零年/OSAMA』
中東の今と日本 私たちに何ができるか(2010/11/23)
ソ連のアフガニスタン侵攻 30年の後(2009/6/6)
『復興資金はどこに消えた』 アフガンの闇
イエジー・スコリモフスキ『エッセンシャル・キリング』
ピーター・ブルック『注目すべき人々との出会い』(アフガンロケ)
中村哲医師講演会「アフガン60万農民の命の水」


中村哲医師講演会「アフガン60万農民の命の水」

2012-06-08 07:22:59 | 中東・アフリカ

中村哲医師講演会「アフガン60万農民の命の水」(2012/6/7、セシオン杉並)に足を運んだ。(編集者のSさんから写真係を拝命したのだった。)

中村哲さんは、「ペシャワール会」を率いて(ペシャワールはパキスタン北西部の都市)、現地のハンセン病対策や灌漑の推進に取り組んでいる。パキスタンでの活動が困難ゆえ、現在のフィールドはアフガニスタンである。

田中良・杉並区長、保坂展人・世田谷区長の挨拶のあと、中村さんは、スライドを用いてゆっくりとした口調で話をした。

2000年以降、アフガニスタンの干ばつは想像を絶するひどさのようだ。村ひとつがまるごと消えることも珍しくないという。中村さんは、「アフガニスタンは政治によってではなく干ばつによって滅びる」との警告を発する。水がなければ当然食べ物もできない。

アフガニスタン北部のヒンドゥークシュ山脈は雪で覆われている。特に温暖化が進んだ結果、一気に水が流れ出て洪水を引き起こし、それは破壊のあとに消え去ってしまう。従って、必要なのは、洪水に耐えうる定常的な表流水の存在だということになる。ペシャワール会は、そのために灌漑の支援を行っている。乾燥してひびわれた土地であったところが、数年後、緑に覆われた写真を次々に見せられ、会場からは感嘆の声があがった。

灌漑の方法は非常に興味深い。例えば水路や護岸工事にはコンクリートを使うのではなく、現地での調達もメンテナンスも可能な石を使う(アフガニスタン人は石を扱うことが大好きだ、ということだ)。これをワイヤーで編んだ籠に入れ、うまく積み上げていく。ワイヤーは何年も経つと錆びてしまうが、同時に、石を保持するような植生も整備する。

また、洪水で決壊しないよう、筑後川の「斜め堰」をモデルにした堰を建設し、成功しているという。近代的な堰などではなく、江戸時代につくられた古来の土木工法である。中村さんは「自然に謙虚にならねばならない」というが、まさに、自然との対話の結果、昔の人が保持していた技術である。やはり江戸時代につくられた吉野川の「第十堰」が、自然環境と調和し、治水上も立派な機能を果たしていることを思い出した。非常に愉快なことだ。

中村さんは、2001年「9・11」以降の米国介入により、ケシ栽培、売春、貧困が目立って増加したと憂える(誤爆などの直接被害は言うまでもない)。しかしその一方で、外国人は過度に立ち入ってはいけないとして、現地の政治批判は控えていた。これもひとつの見識かと思えた。

打ち上げにも参加させてもらい愉しい時間を過ごした。

●参照
姫野雅義『第十堰日誌』 吉野川可動堰阻止の記録
『タリバンに売られた娘』
セディク・バルマク『アフガン零年/OSAMA』
モフセン・マフマルバフ『カンダハール』
モフセン・マフマルバフ『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』
中東の今と日本 私たちに何ができるか(2010/11/23)
ソ連のアフガニスタン侵攻 30年の後(2009/6/6)
『復興資金はどこに消えた』 アフガンの闇
イエジー・スコリモフスキ『エッセンシャル・キリング』
ピーター・ブルック『注目すべき人々との出会い』(アフガンロケ)


ユルマズ・ギュネイ(4) 『壁』

2012-03-23 19:11:42 | 中東・アフリカ

ユルマズ・ギュネイのDVDボックスの1枚、『壁(Duvar)』(1983年)を観る。仮出獄後に亡命先のフランスで完成させた『路』(1982年)のあとに撮られたギュネイの遺作であり、やはりフランスでの製作だったのだろうか。

トルコ・アンカラの刑務所。内部は男性、女性、少年院と分けられている。投獄されている理由はさまざまで、殺人も政治犯もいる。この所長が残酷非道な男であり、権力をかさに虐待を加えるのを愉しんでいる。それは苛烈で、少年に対し、「おまえは仲間うちで少女と呼ばれているそうだな、違うなら証拠を見せろ」と一物を出させ、恥をかかせた挙句、割礼していないなと殴る。反抗しようものなら容赦はなく、看守たちに手加減せず棍棒で殴打させる。拷問するときは、叫ぶ口の近くにマイクを置き、見せしめのために刑務所中に放送する。そして、所内で結婚する男女がいるが、皆が祝福している中、突然それぞれを殺すようなことさえもする。

少年たちが暴動を起こす。しかし、当然すぐに抑えつけられてしまう。少年たちは別の刑務所に移されることになる。ここでなければどこだってマシだよと呟く少年たちだったが、移送先でも同様の抑圧がはじまる。絶望的な終わり方である。

ギュネイが映画人生の最後に、獄中生活の直後、刑務所の実態を晒す映画を作るということには驚かされてしまう。拷問が行われる部屋にトルコ国旗やケマル・アタチュルク(生誕100年の頃に撮られ、神格化は続いていたのだろう)の胸像がこれ見よがしに置いてあること、刑務所内の落書きに「Yasasin Kurdistan」(クルディスタン万歳)と書きつけてあることなど、おそらく当時の体制にとって許容などできようのない映画であったに違いない。ギュネイはクルド系であった。

なお、現在ではギュネイ復権なり、2011年には多くの作品群がDVDされたとの報道がある(このDVDボックスは2009年頃)。

特筆すべき場面は、獄中での出産である。何と、実際の出産場面を用いており、赤ん坊の頭が出てくるところが映しだされているのだ。サミュエル・フラー『最前線物語』における戦車内での出産シーンが、急に馬鹿げたものに思えてきた。暴力だけでない生の発露、これはギュネイの遺作にふさわしいものかもしれない。

ギュネイの作品リストは以下の通りである。(DVDボックスに収録されている作品は★印)

国境の法(Hudutların Kanunu) 1960年代 ★
 他、60年代にも作品
希望(Umut) 1970年 ★
エレジー(Agit) 1971年
歩兵オスマン(Piyade Osman) 1970年
七人の疲れた人びと(Yedi belalıar) 1970年
逃亡者たち(Kacaklar) 1971年
高利貸し(Vurguncular) 1971年
いましめ(Ibret) 1971年
明日は最後の日(Yarin son gundur) 1971年
絶望の人びと(Umutsuzlar) 1971年
苦難(Acı) 1971年
父(Baba) 1971年
友(Arkadas) 1974年
不安(Endise) 1974年
不幸な人々(Zavallılar) 1975年
群れ(Sürü) 1978年(獄中監督) ★
敵(Düsman) 1979年(獄中監督)
路(Yol) 1982年(獄中監督) ★
壁(Duvar) 1983年 ★

●参照
ユルマズ・ギュネイ(1) 『路』
ユルマズ・ギュネイ(2) 『希望』
ユルマズ・ギュネイ(3) 『群れ』
シヴァン・ペルウェルの映像とクルディッシュ・ダンス
クルドの歌手シヴァン・ペルウェル、ブリュッセル


ユルマズ・ギュネイ(3) 『群れ』

2012-03-11 16:48:12 | 中東・アフリカ

ユルマズ・ギュネイのDVDボックスの1枚、『群れ(Sürü)』(1978年)を観る。ギュネイが投獄されていた時期の作品であり、『路』と同様に、獄中から指示を行っての監督という形がとられている。

東トルコ。シヴァンは互いに敵とみなす家の女性ベリヴァンを妻としているが、憎しみは絶えない。ベリヴァンの産んだ子は3人とも死産となり、それ以来、ベリヴァンは心を病んでしまい一言も口をきけなくなった。もはや羊の放牧では食べていけないと悟った一家は、首都アンカラで羊を売りさばくべく旅に出るが、シヴァンの父ハモは、ベリヴァンを災厄の元だとして同行させるのを渋る。そして旅の途中、羊は次々に死に、泥棒に遭い、どんどん少なくなっていく。到着したアンカラで、ベリヴァンは死ぬ。それまで抑えてきた感情を爆発させたシヴァンは、父ハモを罵り、軽口を叩いた羊商人を絞め殺してしまう。

旧い蒸気機関車での旅、車窓からのアナトリア高原の光景が素晴らしい。茶色の高原におけるテント生活の風景に、これはいつの時代の物語だろうと訝しんでしまうが、近代的なアンカラに出たところで、現代であることがはっきりする。羊飼いの放牧生活が難しくなり、みんな農耕を始めている時期であった、ということだ。

オカネが親族の間の関係を歪め、売春でオカネを失う若者がいて、オカネがないと医者に診てもらうことができず、幻想を抱いて都会に出るも何にもならない。それどころか抑圧され続けた主人公は白眼視され、最愛の者を失い、人殺しになってしまう。暴君の父の前には、ここに至り、狂気への道が開ける。時代の移り変わりの様子をとても切実に捉えた映像であると思えるのだがどうだろう。

ギュネイの作品リストは以下の通りである。(DVDボックスに収録されている作品は★印)

?(Hudutların Kanunu) 1960年代 ★
 他、60年代にも作品
希望(Umut) 1970年 ★
エレジー(Agit) 1971年
歩兵オスマン(Piyade Osman) 1970年
七人の疲れた人びと(Yedi belalıar) 1970年
逃亡者たち(Kacaklar) 1971年
高利貸し(Vurguncular) 1971年
いましめ(Ibret) 1971年
明日は最後の日(Yarin son gundur) 1971年
絶望の人びと(Umutsuzlar) 1971年
苦難(Acı) 1971年
父(Baba) 1971年
友(Arkadas) 1974年
不安(Endise) 1974年
不幸な人々(Zavallılar) 1975年
群れ(Sürü) 1978年(獄中監督) ★
敵(Düsman) 1979年(獄中監督)
路(Yol) 1982年(獄中監督) ★
壁(Duvar) 1983年 ★

●参照
ユルマズ・ギュネイ(1) 『路』
ユルマズ・ギュネイ(2) 『希望』
シヴァン・ペルウェルの映像とクルディッシュ・ダンス
クルドの歌手シヴァン・ペルウェル、ブリュッセル


サミュエル・シモン『An Iraqi in Paris』

2012-02-29 23:42:27 | 中東・アフリカ

サミュエル・シモン(Samuel Shimon)というイラク出身のジャーナリスト・作家による自伝的な本、『An Iraqi in Paris』(パリのイラク人)(原著2005年)を読む。出張先で持って行った本を読み終えてしまい、ドーハの空港で手に取ったものだ。

著者は、いつの日かロバート・デ・ニーロを主演とする映画を撮ることを夢見て、イラクの田舎を飛び出る。勿論、タイトルは『パリのアメリカ人』のパクリであることは言うまでもない。ヨルダンやレバノンでそのようなことを口走る若者は怪しまれ、暴行され、投獄される。なんとか辿りついたパリでは、ホームレスであったり、誰かの家に転がり込んだり、たまたま仕事を得れば安宿に泊まったり。それでも、パリのバー通いを欠かすことはない。そして、映画創りという夢は、美しい夢のままに漂う。

夜のパリを徘徊する映画ファンであるから、愉快なエピソードがさまざまに出てくる。バーにジャン・リュック・ゴダールマルコ・フェレーリが立ち寄ってきたり、髭を剃ったところ有名なテレビタレントそっくりになって、友達と間違えたマルチェロ・マストロヤンニと話したり。中でもケッサクというべきか、ひでえ奴だというべきか、一目惚れした女の子を落とすために、ロバート・デ・ニーロに会わせてあげるよ、マスコミから逃げて実は隣りの部屋にいるんだよ、と騙す話もある。

パリの日本人は著者にとっておかしな存在だったようだ。バーに出入りしたはじめの2回は誰とも一言も口をきかなかったのが、次からは全員と話しはじめる極端な男であり、彼は著者の喧嘩中の恋人と出逢った夜に、そのバーで、結婚すると決める。著者がその恋人の部屋で痴話喧嘩をはじめると、彼は何も言わずトイレに閉じこもり、鍵をかけてしまうのである。まあ、何だかわかる気もする。

「Umberto Eco's Clown」という章では発見があった。

"I didn't understand what she meant, and for two days Nadia didn't explain, but then she told me, laughing, 'He was asking you if you were my new pimp!'"

まさに、もう10年以上前に読んだウンベルト・エーコ『フーコーの振り子』において、記憶に残っていた台詞が蘇ってきた。小説では、主人公の男が電車のなかでたまたま前に座った女性に一目惚れし、「ピム!」と言ってそのことを示したのだ。そのときはイタリア語ででもあろうかと思っていたのだが、改めて調べてみると、「pimp」は、もともと「売春斡旋人」、転じて「超イケてる!」という意味のようなのだった。

そんなわけで、それなりに愉しく自伝を読んだのだが、最後の100頁ほどは奇妙な物語に割かれている。これがつまらない。本当につまらない。映画の素材のつもりなのだろうか。時間の無駄ゆえ、それは読むのをやめた。


ドーハの村上隆展とイスラム芸術博物館

2012-02-22 23:21:51 | 中東・アフリカ

カタールの首都ドーハ。夜到着しての印象は、上海を凌駕するほどギラギラしたハイテク都市ぶり。ペルシャ湾に面してちょっとした内湾になっており、水面越しに高層ビル群を眺めるとその光景は『ブレードランナー』である(下に猥雑な通りがない点が決定的に違う)。

仕事が終わって少し時間ができたので、話題の村上隆展を観に行った。『murakami ego』と題されており、会場のAlriwaq Exhibition Spaceを大通りから見ると村上隆のキャラでギトギトに飾り付けられている。玄関を入るとそこには巨大な村上隆の座像、横に笑うお花たち。何なんだ。

受付の女の子たちはフレンドリーで、こちらを日本人だと見るや嬉しそうに日本語で話しかけてくる。やはりサウジ社会とはまるで違う。

中も凄い。DOB君、TOKYO MXのゆめらいおん、お花、カイカイとキキ、カッパ、美少女たちといった馴染のキャラたちが、圧倒的な物量で迫ってくる。ここまで親しみの圧力をかけられると、アニメ的なキャラが宗教であっても問題ないなと思った次第。それにしても、湾岸国だから出来た展示ということなのだろうか。

すぐ隣りには、イスラム芸術博物館(Museum of Islamic Art)がある。斬新なデザインのハコが、湾の中に建てられ、橋でつながっている(中野ミュージアムショップには、田原桂一による博物館の大判の写真集があったが、高いため買わなかった)。


中の吹き抜けから天井を視る


外はいい雰囲気

閉館まで時間があまりなくて駆け足での観賞だったが、それでも非常に愉しかった。撮影は自由である。


猿(イラン、1200年頃)


『シャー・ナーメ』より、ザーハックの悪夢(イラン、1525-35年頃)


小型コーラン(イラン、1550年頃)


鉄鏡(イラン、16世紀)


ボウル(イラク、9世紀)


ガラス瓶(エジプトまたはシリア、1200年頃)


モスクのランプ(エジプト、14世紀)


モスクのランプ(リバイバル品)(フランス、1881 or 84年)


『ラーマーヤナ』写本(インド、16世紀後期)


ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンのカメオ(インド、1630-40年)


宝石の隼(金、エナメル、ルビー、エメラルド、ダイヤモンド、サファイア、オニキス)(インド、1640年頃)


オスマン帝国のヘルメット(トルコまたはコーカサス地方、15世紀)


オスマン帝国のヘルメット(トルコ、16世紀初頭)




オスマン帝国の兵士(トルコ、15世紀末~16世紀初頭)


オスマン帝国のコーヒーカップ・ホルダー(金、ダイヤモンド、ルビー)(トルコまたは欧州、19世紀)


リヤドのビルと鍵と扉

2012-02-22 01:54:36 | 中東・アフリカ

サウジアラビア、リヤド。中東に行くのは、15年ほど前にエジプトとイエメンに足を運んで以来なのだ。観光にも一部門戸を開いているとはいえ、基本的には、仕事と宗教でしかビザは発行されない。

ドーハで飛行機を乗り換え、しばらくは砂漠ばかり。やがて高度を下げてくると、何やら道や人工物が見えてくる。そして街。不思議な気分である。

到着したのは金曜日の午前、それはサウジの休日。宿に荷物を置いて昼食を取り、とりあえず外を歩いてみたが、ほとんどの店は閉まっている。人もろくに歩いていない。せいぜいスターバックスなどのカフェにたむろしている程度である。ショッピングモールの中は閑散としていて、賑わっているのはフードコートのみ。とはいえ、平日も昼間はこんなもので、夜こそ活動的になるらしい。


だだっ広くて閑散


閑散


店は閉まっている


本当に辛そうだが閉まっている

目立つ超高層ビルは、尖ったアル・ファイサリヤ・センター(267m)、上海環球金融中心(492m)(>> リンク)よりも「栓抜き」らしいキングダム・センター(302m)。これでも、ドバイのブルジュ・ハリーファ(828m)やメッカのアブラージュ・アル・ベイト・タワーズ(601m)には全然敵わない。さらにクウェートやサウジに「1km超え」のビルの建築計画がある。

王族の所有するキングダム・センターの77階には、「世界でもっとも高い場所にあるモスク」があるという。


アル・ファイサリヤ・センター


向こう側にキングダム・センター

もうヒマですることがない。「勧善懲悪委員会」(宗教警察)に取り上げられるのが嫌で銀塩カメラを持ってこなかったのだが、そもそも人がいない。向こう側のビルには「2 Reasons 2 Be Here」と書いてある。ヒマな自分のできること、それは鍵の写真と扉の写真を撮ること。


ここに居るふたつの理由

その1、鍵シリーズ。

その2、扉シリーズ。

そんなわけで1時間半ほどウロウロして宿に戻ったら、急激に眠気を覚えて爆睡。気がついたら夜、待ち合わせの時間になっていて飛び起きた。

●参照
保坂修司『サウジアラビア』


保坂修司『サウジアラビア』

2012-02-15 01:21:02 | 中東・アフリカ

今度サウジアラビアに出かけることもあって、保坂修司『サウジアラビア―変わりゆく石油王国―』(岩波新書、2005年)を読む。

石油の莫大な収入によって成り立つレンティア国家。本書は、それによる軋みと危さを指摘する。税なるものは基本的に存在せず、サウジ人に限っては分配による生活が成立、それが既得権益化している。この国のイメージと合致しない農業も、補助金漬けであったという。だからと言って安泰ではなく、財政の基盤は揺らいでいる。

本書が出版されてからしばらくは、原油価格が冗談のように高騰を続けた。リーマン・ショックにより一度は落ちたものの、これが、経済構造の危うさが顕在化することを先延ばししたのだろうか。年始のテレビ番組でも、サウジ人にとっては稼がなくても中流以上の生活が可能であるとアピールしていた。

面白い分析がある。中東において、国王が君主や閣僚になれる王国は革命を許さず(サウジアラビア、クウェート、バーレーン、カタール、UAE、ヨルダン、モロッコ、オマーン)、なれない王国はすべて革命によって打倒されている(アフガニスタン、エジプト、イラン、イラク、リビア)。しかし、「アラブの春」を通じて、例えばモロッコでの国王権限縮小やヨルダンでも同様の動きがあるなど、これまでの政体だけで王国存続を決定づけられるわけではないように見える。サウジアラビアにおいても、本書でその胎動を報告していた女性参政権が認められる方向であるらしい。


イエメンの映像(3) ウィリアム・フリードキン『英雄の条件』

2011-10-23 12:33:36 | 中東・アフリカ

イエメンサレハ大統領が辞める辞める詐欺を繰り返しているうちに、リビアではカダフィ大佐が殺されてしまい(1989年にルーマニアのチャウシェスク大統領が殺され、全世界に映像が流されたことを思い出した)、イエメンやシリアへの影響はますます不可避と見られている。

そんなわけで、思い出して、イエメンを舞台とした映画、ウィリアム・フリードキン『英雄の条件』(1990年)を観た。原題は『Rules of Engagement』、すなわち「交戦規定」である。

チルダース大佐(サミュエル・L・ジャクソン)と退役軍人ホッジス(トミー・リー・ジョーンズ)とは、ベトナム戦争を共に戦った米海兵隊仲間である。ある日、イエメンの首都サヌアにある米国大使館で、市民によるデモが起き、チルダースはインド洋からアデン沖に移動した空母からヘリで派遣される。大使を逃がし、海兵隊員を撃たれたチルダースは、デモ隊の中に発砲者が大勢いることを確認し、群衆への発砲を命令する。これは80名以上の死者が出た無差別虐殺事件として国際的に報道されることとなり、米国政府は、国益維持のため、チルダースを犯罪者に仕立て上げようとする。あまりにも不利な情勢にあって、弁護を買って出たのがホッジスだった。

ざっくり言えば、米国の血塗られた歴史や軍部の汚点を誠実に晒す格好を取りながら、これまで汚れ役として国家を護ってきた者として海兵隊を讃える、そんな映画である。海兵隊の主役ふたり(ジャクソン、ジョーンズ)が、如何にも無骨で不器用ながら自らの役割をこなそうとしてきたのかを示そうとする、これはまさに軍隊の論理そのものではないのか。もちろんイエメン人はカリカチュア化されて登場する。北ベトナム軍の元将校が軍法会議の証人として登場するが、彼も、かつてベトナムのジャングルで見せしめのために戦友をチルダースに殺されたにも関わらず、仲間を守るためのチルダースの行動には深く共感している。片腹痛いとはこのことだ。

この映画では、イエメンの米国大使館がサヌア旧市街(世界遺産)にあるとの設定になっており、どうもちゃちなように見えたのだが、やはり、実際にはモロッコで撮影されたものであるらしい。新たな証拠集めのためにサヌアを訪れたホッジスが使うカメラは、おそらく35mm単焦点レンズを持つニコン35Tiであるが、なぜかズームレンズのように描かれている。勇ましい撮影をしている割には細部が甘い。


昔、サヌアで買ってきた旧市街のおもちゃ

実際に、アルカイダがサヌアの米国大使館に爆弾を仕掛けた事件がある(2008年)。サレハ大統領は米国の「テロとの戦い」という文脈でのつながりが強いと評価されており、それというのも、いまだ部族社会の力が強いことの要因となっている複雑な山岳地域での戦争が、他地域での展開を可能としていたからでもあったという(>> 参考①参考②)。すなわち、米国をターゲットと見たてたこの2000年の映画と、サレハ追放の現在の動きとは無関係でない、と言うことができるのだろうか。2001年の「9・11」前にこのような盗人猛々しい牽強付会の映画が撮られたことの罪だって、考えられなくはないわけである。

ところで、最近、アンドリュー・デイヴィス『コラテラル・ダメージ』(2002年)という映画を観た。「9・11」のために公開が延期されたという曰くつきの作品であり、やはり、『英雄の条件』と同じような雰囲気がある。コロンビアのテロリストが米国で爆弾テロを起こし、妻子を殺された主人公(アーノルド・シュワルツェネッガー)がパナマ経由でコロンビアに潜入、テロリストと戦うという話である。これにしても、米国の罪はアリバイのように言及されてはいるものの、「だからといって米国の市民の安全を暴力的に脅かす」存在は滅ぼされるべきだ、とする構造はまったく同じなのである。

この手の映画に、米国の保守層の意思と予算がどの程度投入されているのか、ちょっと興味があるね。

●参照
イエメンの映像(1) ピエル・パオロ・パゾリーニ『アラビアンナイト』『サヌアの城壁』
イエメンの映像(2) 牛山純一の『すばらしい世界旅行』
イエメンとコーヒー
カート、イエメン、オリエンタリズム
イエメンにも子どもはいる
サレハ大統領の肖像と名前の読み方


『タリバンに売られた娘』

2011-09-24 10:37:19 | 中東・アフリカ

NHKの「BS世界のドキュメンタリー」枠で放送されたドキュメンタリー、『タリバンに売られた娘』(2010年)を観る。

原題は『I Was Worth 50 Sheep』、つまり、娘は10歳かそこらで50頭の羊と交換されたりする(※sheepは単複同形。仮に野球チームができても、広島カープと同様に江戸川シープなどとなる)。勿論羊だけではない。このドキュでは、土地やオカネ(例えば、5万アフガニ=10万円)などと交換されてきた実態が紹介される。ある女性が自虐的に言う「女性は犬以下、男性の所有物」を示すように。

ここに登場する女性サベレは、やはり売り渡された先で夫・ゴルムハンマドの暴力に耐えかねて脱出、支援組織の「女性シェルター」で生活している。そこに、妹ファルザネ、母とその再婚相手がサベレを引き取りに現れる。ゴルムハンマドに知られたら殺されてしまうため、誰にも住所を教えないという約束で引っ越し、その一方で、離婚を実現させるため訴訟する。凶悪犯でもあり警察が行方を追っているゴルムハンマドは法廷に現れない。義父は彼を騙して警察に逮捕させる。

それから1年、ファルザネは羊と引き換えにタリバンの男に引き渡され、行方が知れない。サベレの離婚協議は続く。

「女性シェルター」のスタッフが、またタリバン政権に戻るようなことがあったら・・・と恐怖を口にする。女性の扱いがタリバンの意図により酷くなった実状はよくわかる。しかし、すべての原因がタリバンにあるようにつくるドキュメンタリー作りには、違和感を覚える。

●参照 アフガニスタン
『タリバンに売られた娘』番組サイト
セディク・バルマク『アフガン零年/OSAMA』
モフセン・マフマルバフ『カンダハール』
モフセン・マフマルバフ『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』
中東の今と日本 私たちに何ができるか(2010/11/23)
ソ連のアフガニスタン侵攻 30年の後(2009/6/6)
『復興資金はどこに消えた』 アフガンの闇
イエジー・スコリモフスキ『エッセンシャル・キリング』
ピーター・ブルック『注目すべき人々との出会い』(アフガンロケ)


イエジー・スコリモフスキ『エッセンシャル・キリング』

2011-09-19 23:50:58 | 中東・アフリカ

渋谷のHERZに鞄の修繕を出したついでに、イメージフォーラムでイエジー・スコリモフスキ『エッセンシャル・キリング』(2010年)を観る。

アフガニスタンで米兵を殺した男ムハンマドは、捕えられ、拷問を受ける。しかし、東欧での搬送の途中にその車が事故に遭い、ムハンマドは走って逃げだす。そこから先は、蟻や樹皮を喰い、授乳中の女性の乳を吸い、猟犬や人を殺し、ただひたすらに雪の中を逃げる。本人のセリフはない。それだけの映画である。

観終わった直後、あまりの唐突さとドラマツルギーのなさに期待外れだったと思った。しかし、映画館を出て歩くうちに、もう既に、そのインパクトが身体の中で反響している。

生木を裂いたような生きた棘を提示する、「手法の映画」かも知れない。それでも、これは傑作かも知れない。敢えて言えば、この2倍の長さでもよかった。