鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島から佐久島まで-その7

2015-05-10 07:10:29 | Weblog
崋山が日記に記す「人数三千、千石五百衛門頭、これは佐久の島の事」と記す、「千石五百衛門」とは何か。「千石」とは「千石船」のことであり、千石前後積みの弁財船。「五百」とはおそらく「五百石」ということであり、五百石前後積の弁財船のこと。「衛門頭」とは「衛門」が「頭(かしら)」である、ということであると思われるが、「衛門」とは誰のことかわからない。「〇〇衛門」という者がいて、その者が佐久島の廻船の「頭」、つまり船主であるということか。頭注には、前に触れたように、「佐久島には江戸期松本家が千石船二艘を所有し、江戸廻船を行っていた」とあり、鈴木えりもさんの論文では、一色町に所蔵される松本家文書によれば、松本家がいつから廻船業を始めたのかは未詳であるが、その文書から確認できる最も早い年代は弘化3年(1846年)であり、それ以前に松本家が廻船業を行っていたかどうかは確認することができないとのこと。松本久次郎がこの年6月に「師崎彦三郎」(知多半島南端師崎村の彦三郎か)という者より「中吉丸」という船を購入。「幸栄丸」と名付けて同月より廻船業を始めています。この時の船主で出資者の一人が「松本久左衛門」という者で、崋山が記す「衛門頭」の「衛門」とは、この「久左衛門」とも考えられますが、これも確証はありません。ともかく佐久島には千石積や五百石積ほどの大型・中型の弁財船で廻船業を営む者がいて、その「頭」(かしら)が「衛門」なる者であった、ということであるでしょう。崋山が佐久島を訪れた天保4年(1833年)当時、佐久島においては廻船業が活発に行われ、「人数三千」と崋山が記すように3千人ほどの島人がいて大変賑わっていたことが、この短い記述からわかるのです。 . . . 本文を読む