鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

松崎慊堂(こうどう)と近藤重蔵のこと  その2

2014-03-21 05:43:50 | Weblog
松崎慊堂(こうどう)は意外と旅好きな人である。「意外と」というのは儒学者というのは学問に励んでいて旅に出掛ける暇などないだろうという私なりの思い込みがあるからであって、実はそうでない人もいたのだということを『慊堂日暦』を読んで知ったことは収穫でした。驚いたのは慊堂は、富士山の頂上に登ったこともあるということ。江戸時代において富士山に登る人の多くは信仰関係者であり、富士講の人々や修験道関係の人々が中心でした。そうでない人々にとっては、富士山は遙拝の対象であっても「物見遊山」的に登る山ではありませんでした。慊堂は富士講の講員ではもちろんありません。修験道とも関わりはない。彼は昌平黌に学んだ朱子学者であり、佐藤一斎とともに「林門」(大学頭である林家)の双璧と称されるほどの優秀な儒学者でした。慊堂は遠州掛川藩に招かれて侍読(じどく・君主に侍して学問を講義する人)となりました。掛川藩の侍読となったということは掛川藩士になったということであり、江戸においては西城前(今の皇居前広場西部)の大名小路の一画にある掛川藩上屋敷の長屋に居住していました。しかし文化12年(1815年)、45歳の時に慊堂は隠居して、渋谷村の羽沢という地の別邸に住まうようになり、そこで若い塾生を教えたり、いくつかの大名家に講義に出掛けたりして過ごすようになりました。その別邸が「羽沢山房」とか「石経山房」と呼ばれたのです。では、慊堂はいつ富士山に登ったのか。それがわかるのが文政9年(1826年)「七月六日」の記事。この日、慊堂は稲川玄度が死んだことを知って稲川宅を訪れますが、すでにお棺は荼毘(だび)所へと向かってしまっていました。富士登山が出てくるのは、その日の「稲川玄度卒(しゅつ)す」という文章の中。それによると登った年は「丙子の年」。それは文化13年(1816年)のことであり、その年慊堂は46歳。隠居した年の翌年ということになる。出発したのは7月4日(陰暦)。同行者は稲村玄度。7月7日に登山を開始し、雨を石室に避けること二昼夜、ついに頂上に達して「天下を小なり」となして玄度と一緒に酒を飲み、富士山で別れたのが7月9日のことでした。慊堂は富士山を見れば、その登頂のことと、同行した稲村玄度のことを思いだしたに違いない。その富士登山以外にも慊堂はいろいろなところを旅しています。 . . . 本文を読む