鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.2月取材旅行「永田町~目黒川~三軒茶屋」 その11

2014-03-10 06:03:30 | Weblog
『藤岡屋日記』の事件に関する記述はきわめて詳しい。どのようにそれに関する情報を集めたのかと思うほど。しかも須藤由蔵は、外神田の御成道(おなりみち)で露天の古本屋を営む一介の町人に過ぎない。彼の記述は、新富士を造るきっかけから始まります。下渋谷村に半九郎(実は「半之助」・以下「半之助」に訂正:鮎川)という百姓がいて、その者は山正広講という富士講の信者であったが、ある時講中の者が大勢半之助の家に集まって話をした時に、ここは地理的にもいいし、見晴らしの名所でもあるから、ここに富士塚を造ったならば参詣する人も多くなり、ひいては講中も多くなるに違いないと、みんなが勧めたので、半之助も確かにその通りだと思ったものの、百姓身分では新富士造立の申請はなかなか困難であり、旗本から申請すればすぐに許可が下りるだろうと考えた。幸いに近藤重蔵と親しい者がいたので、その者を通して近藤に頼み込んでみたところ、近藤はすくに承知し、半之助の土地の一部を自分の抱屋敷(かかえやしき=別邸)としたいが、それに伴って敷地内の残土を一ヶ所に集めたいと支配筋へ届け出たところ、すぐに許可がおりたのだという。これが新富士が造られるに至った経緯。 「地理的にいい」とは、江戸市中から麻布を経て目黒へ抜ける最短距離の道である祐天寺道がそばを走っていることや、また台地上(「淀橋台地」)のへりに位置するということであったと思われます。台地を下る別所坂はその祐天寺道の一部でした。須藤由蔵は、富士講の枝講の一つである山正広講におけるそのような話し合いの内容をかなり詳しく把握しています。「幸に近藤重蔵へ心易く出入の者」がいてその者から近藤に頼んだというが、それは一体誰であったのか。『郷土目黒』(目黒区郷土研究会)の第十二集に収録されている「江戸富士の庭園的考察-目黒富士の銘々について-」(平山勝蔵)によれば、「工事を斡旋したのは富士山北口の御師中雁丸由太夫」であったとのこと。この御師は重蔵の信任が厚く、山開きに際しては祭主を務めた人でもあるという。可能性としては、この富士吉田の御師(おし)であるとも考えられる。百姓身分の者が申請してもなかなか事は進まないだろうから、豪腕で有名な御旗本、近藤重蔵に頼めばすぐに許可が下りるだろうと考えたのです。おそらく半之助が考えたというより、中目黒村の山正広講が考えたものと思われます。 . . . 本文を読む