鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.夏の取材旅行「岩沼~丸森~名取」 その3

2012-09-15 07:36:26 | Weblog
平塚八太夫が水主として入り、沖船頭として活動していた那珂湊の大内家は「濱屋」という屋号を持ち、廻船問屋・海産物問屋を営む、水戸藩の御用達商人でした。文政5年(1822年)には郷士に列せられ、翌文政6年(1823年)には三百五十石となりました。「濱屋」大内家は、宝来丸という船を所有して蝦夷地松前と交易を行っており、巨利をあげていたという。その沖船頭として信頼を得ていた平塚八太夫が、やがて大内家から独立し、「濱屋」大内家の名義を利用して蝦夷地との交易を展開し、幕末に仙台藩御用達(「蝦夷地産物取開方御用達」)に任じられるに至ったことはすでに触れた通り。ここで思い出されるのが『北茨城市史上巻』に出て来た平潟港の鈴木屋忠三郎という廻船問屋。この鈴木屋忠三郎は、寛政11年(1795年)には「蝦夷地産物取扱人」、享和3年(1803年)には「蝦夷地御用取扱人」を幕府から命じられ、蝦夷地の物産を平潟の地で一手に取り扱う特権商人でした。銚子には「気仙問屋」があって、鯡数子・鮭など松前藩の国産物も「御用荷物」として取り扱っていましたが、銚子に入ってくる蝦夷地の物産は、那珂湊の水戸藩御用達の大内家(濱屋)や平潟の鈴木屋忠三郎、また仙台藩御用達の平塚八太夫らがその運送に関わっていたものと思われます。 . . . 本文を読む